思えば、あの時には自分の未来(さき)は決まっていたのかもしれない。
人の心を理解することができない、命令に従うだけの人斬りになるのだと…


幸福論−2





「宗次郎さん、残りは私がやりますから」
稽古に行って下さい、暗にそう告げて彼女は笑んだ。
「いえ、お陽さんの仕事を増やす訳にはいきません」
彼女の優しい申し出に頬笑んで断ると、彼女は少し嬉しそうに頬を染めた。

「おっ、宗次郎!朝から見せつけてくれるなぁ!」
そんな声をかけたのは、原田だった。
宗次郎がそちらを見やれば、稽古着に身を包んだ原田が大きく手を振り、
隣の永倉や山南も微笑ましく宗次郎たちを見ていたのだった。

「や、止めてくださいよ!そんなんじゃありません…!」
宗次郎は大慌てでその言葉を否定しながら頭を振ったが、
事実、周囲から見れば2人はまるで初々しい恋人たちの様だったのだ。

宗次郎は彼女に向き直ると、項まで染めて俯く彼女に「気にしないで」と告げ、勝手口へと足を向けた。
自分の背に彼女が視線を送っていた事など、全く気付きもせずに…



その頃の宗次郎にとって、日々の暮らしは家事と稽古で成り立っていたと言っても過言では無い。
16を数えた今でも、9の歳に試衛館にやって来た頃と大して変わらぬ暮らしをしている訳だが、
近頃、宗次郎はこれまでに覚えた事のない程の喜びの中で日々を送っていた。

―それは、歳三の存在だ。
幼い頃から兄の様に慕っていた歳三は、寂しい時には遊んでくれたし、
フデが厳しく当たりつけてきた日の夜には必ずと言っていいほど添い寝してくれたし、
2人だけの時には逞しい腕で抱きしめてくれたり、優しい口付けをしてくれたりしていた。

そんな事を当然と思っていた宗次郎は、14の時に口吸いとは特別な行為である事を知り、
歳三はどういうつもりで自分の口を吸っていたのだろうと思い、何気なく本人にそれを問い掛けたのだ。
言葉を濁した歳三は宗次郎を強く抱き締め、それきり姿を見せなくなった。

そんな歳三が再び宗次郎の前に現れたのは、半年ほど前の事。
いつもの様に疲れ果てて就寝した宗次郎は、突然、体を押さえつけられて目を覚ました。
何事かと判じかねて抗うより早く、唇を塞がれ舌で口内を蹂躙されたのだが、
ふわりと漂った煙管の匂いと伝わる味でそれが誰であるのか悟り、懐かしさに涙が出そうになる。

「としぞう、さん…」
「…宗次…」
与えられる熱に蕩かされながらその名を口にすれば、いつかと同様に、己の名が優しく呼び返される。
体を繋げる痛みは壮絶なものだったが、宗次郎の記憶に留まったのは、それにも勝る歓喜だった。

それからは、正式に試衛館に入門した歳三と共に過ごす喜びに浸っていたため、
彼女がどんな気持ちで原田の言葉を受け取ったのか、宗次郎は知る由もなかった。



ある日のこと、宗次郎はいつも通り夕餉の支度をする為に他の門下生よりも早めに稽古を切り上げ、
炊事場へと踏み込んだ。そこにはいつも通り、お陽の姿。
「お疲れ様です、宗次郎さん」
「お陽さんも。ありがとうございます」
手を休めて頭を垂れる、彼女の肩に軽く手を触れながら宗次郎はその隣に立ち、
先程調達してきたばかりのかぶをまな板に載せて綺麗に四分割する。
その様を、彼女は隣から瞬きも忘れて見つめていた。

「…どうかしましたか?ちょっと照れちゃいます」
「い、いえ…」
宗次郎が何事かと問うと彼女は口ごもって俯いたが、すぐに何かを決心した様で、
次に視線を上げた時には、その目には何か強い力が宿っていた。

「宗次郎さん。折り入ってお話したい事があるのですが…」
「そんな、改まって…今すぐですか?」
「いえ、夕餉の支度が済みましたら」
分かりました、と宗次郎が頷くと、彼女は安堵した様に少し笑んだ。
その表情が曇っている理由は後に分かるのだろう、と宗次郎は全くもって楽観的だった。

そして夕餉の仕度が済むと、宗次郎はお陽に連れられて、屋敷の裏側まで来た。
食客たちはまだ湯浴みやら読書やら、好き放題にしている頃だろうとは思うが、
あまりのんびりしていては叱られてしまうだろう。
「お陽さん、一体こんな所に何の用事が…?」
「…場所はここでなくとも構わぬのですが、人気の無い場所がいいと思いまして」
「?」
意味を判じかねた宗次郎は、軽く首を傾げる。
お陽はその彼を眩しがるように少し薄めにしてから、瞼を閉じて一呼吸ついた。

「実は、宗次郎さんにお願いしたい事があるのです」
「…僕に出来る事でしたら」
お陽はゆっくりと頷くと、宗次郎の顔からは微妙に視線をずらしたまま、口を開いた。
「私も、もう18です。身を固める様に幾度も言われておりましたが、全く興味がございませんでした。
ですが近頃、この方と結ばれたいと…添い遂げたいと思うお方がいるのです」
そこまで聞くと、宗次郎は得心がいったとばかりに、大仰に頷いてみせた。

「そうですか!僕に仰ったという事は、食客の方ですか?お手伝いします」
完全に親切のつもりで、軽くそう言ってみせる宗次郎を見て、お陽は少し躊躇った。
この優しさを永遠のものに出来る可能性と失う可能性、果たしてどちらが高いだろう…
そう思うと、急に喉の奥が乾いたような感覚を覚えたが、ここで引き下がる訳にはいかない。

「わたくしの……私の、願いは…宗次郎さんの伴侶にしていただくことです」
「………」
思いも寄らぬ言葉に、宗次郎は思わず笑みを打ち消した。
「どうか、お傍に居させてください」
まさか、彼女がそんな事を考えているとは思いもしなかった宗次郎は、
あまりの動揺から、薄っすらと涙さえ浮かべながら視線を揺らした。

彼女は器量よしのしっかり者だし、何よりも気が強くいい女だ。
宗次郎にとって唯一、気兼ねなく話の出来る女性と言ってよかった。
だが、宗次郎の心には既に歳三がいた。同じ道を共にできる、大切な存在が。

「僕は…剣術を極めるまで、誰かと添うつもりはありません」
それは、自分自身の限界を感じた時とも言い換える事ができる。
…すなわち、一生訪れる事は無い。

「それでも構いません。どうか、私を選んでください…!」
「一緒になっても幸せにしてあげられないのに、一生を預かるなんて…できません…」
まして、お陽は宗次郎の中でも特別な女性だ。
いつも明るく笑顔で活発で、お天道の様に眩しい彼女を、先の見えぬ自分の犠牲になどしたくは無かった。

「宗次郎さんは、何も分かっていない…私の幸せなんて…」
「え?」
「ねぇ、幸せってどういうこと?」
焦点の合わぬ目で薄く笑った彼女は自嘲するようにそう呟き、
何も答えることの出来ぬ宗次郎をしばし見つめると、何も言わずにその場を後にした。
残された宗次郎は呆けたまま、ただその言葉を反復する事しか出来なかった。

その後、配膳を済ませた彼女は自ら喉に短刀を突き刺して自害を図った。
結果的に助かり、近藤家の計らいで立派な商家に嫁ぐ事になったのだが、
その出来事は、宗次郎の心の中の密かな翳りを一層濃いものへと変えたのだった。





「…目が覚めたか」
聞き慣れたその声は、先程よりも少し低かった。

「…ここ、」
「俺の部屋だ。ガキと遊んでる時に倒れたんだ。覚えてるか?」
土方のその言葉に、総司は先程見たのは夢であったのだと理解する。
―想いを踏みにじり、その命まで奪いかけた自分は、幸せになどなってはいけない―
その時、自分がそう誓ったことなど、総司は今まで全く覚えていなかった。
果たして、土方の中には彼女の存在が記憶されているのだろうか…

「土方さん。お陽さんってご存知ですか…?」
土方はその名を耳にすると、あまり思い出したくは無い事らしく、表情を曇らせた。
「私は忘れてしまっていたんです。でも、もうずっと昔の事なのに、忘れていた筈なのに…
 彼女の言葉をはっきり覚えていたみたいで…いま―」
「記憶にねェな」
土方は聞きたくない、とでもいうように総司の言葉を遮った。
だが、既に総司の中で膨らみつつあるその思いは変わらない。
「…未だに、答えが出ていないんです。何より大切な事なのに…」

もし、どうして土方を好きだと思うのか、その答えを見つけることが出来ていたのなら、
自分は今のまま幸せでいる価値があったのだろうと思う。
人殺しにも、人を愛せるのなら…。

総司には、どうして土方が好きなのか分からないだけでなく、
自分が土方に想いを寄せた経緯を思い出そうとしても、思い出せなかったのだ。
恋だとか幸せだとか、そんな感情を理解する前に他人のものになっていた―
―そうとしか、思い出せなかった。

「だから、あなたから離れて考えたいのです」
このまま隣にいれば、命懸けで自分を想ってくれたお陽に申し訳が立たないばかりか、
土方に対する怒りや憎しみが湧いてしまいそうだから。

「聞かん」
土方は駄々っ子のようにそう呟くと、総司の唇を塞ぎ、腕を強く引いて胸元に総司を抱きこんだ。
何かから守るように、包むように抱き締める。
「俺は、お前を手放す気はねェ」

「なら…あなたの所為で、私はこれが幸せなのだと思い込んで生きていくんだ?」
土方の腕を逃れて立ち上がった総司の冷たく笑った表情に、流石の土方も言葉を失う。
「…総司、」

「人を愛する心が分からないなんて…やっぱり、幸せになる価値なんてないよ…」
背中を向けた総司の声からは、ただ悲しみだけが漂っていた。
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話が色々と、とんでてすみません!何だか若干、私が混乱してきたような…汗
江戸に居た頃、沖田さんに思いを告げて自害を図った女性がいるというのは事実ですが、名前・年齢などはフィクションです。
(2006.4.25upload)