部屋を後にすると、総司は副長執務室に向かう。
仕事に復帰する為には、そこにいる男の許可を得ねばならない。
自分に関しては殊に口煩い彼を納得させる手間を思うと、人知れず溜め息が零れた。


幸福論−1





「副長、お話があるのですが」
普段ならば断りなど入れずに開けてしまう障子だが、
今日ばかりは、部屋の前の廊下で丁寧に膝を折って断りを入れる。
呼び方さえ変えて、とにかく改まった様を見せねば許されないだろう、という計算だ。

しかし中からは返事が無く、代わりにコトンと小さな物音がした―
かと思えば、やたら大きな音が響いて、素早く目前の障子が開かれた。

総司はその行為には動じなかったが、上を仰ぎ見た瞬間、流石に表情を強張らせた。
そこには、ものすごい剣幕の土方。
総司がまずいと腰を引こうとした頃には、
「馬鹿野郎っ!まだ起き上がるんじゃねェよ!」
という土方の怒号に聴覚を支配され、次いで彼の手で室内に強く引き寄せられていた。



袴越しに擦った膝が痛む。
体勢を崩している総司を見下ろしながら、後ろ手に障子を閉めた土方は睨みを効かせたまま舌打ちする。
その視線から逃れるように総司が文机を見やれば、硯の筆が墨汁を滴らせている…―
障子が開く前の小さな物音は、筆を休めた音だったのだろう。

「どうせ、また巡察に行きたいとでも言いに来たんだろ!聞く気はねェから、早く寝てろ!」
言いながら自らの布団を敷き始めた土方の袖を、総司は慌てて引いた。
この部屋で禁足になろうものなら、服薬を誤魔化せぬばかりか、菓子さえも禁じられてしまうだろう。
総司にとっては三重苦とも言えるそれに、耐えられる筈も無い。

「もう平気なんですっ!熱も下がりましたから!」
「上がる下がるだけじゃねェんだ。大事をとって寝てろ!」
念のため、と言う土方にそれならばと応じた総司は、勝機が見えたと踏んで、
何だそんなことですか、と呟きながら少し落ち着いた口調に戻った。

「蛤御門と天王山の件は大人しくしてたんですから、もういいでしょ」
「回数の問題じゃねェ!大人しく寝てろ」
「残念ながら、日数の問題です。長いお休みいただきましたから、もう平気ですよ」

総司の預かる一番隊は危険である夜勤を多く受け持っていた事もあって、
どう贔屓目に見ても、総司が不在でいる影響は小さいとは言えないものだった。
実際、自らの組の隊士から何度も泣き付かれており、
それを理解したうえで休むというのは、総司にとってかなりの苦痛となっていたのだ。

無論、その思いを分からぬ土方では無いが、だからと言って無理をさせたくはない。
「命令だ。従え」

無情に短くそう言い放つと、総司は俯いて押し黙った。
これ以上話す事は無い、と土方は背を向けて文机に向かったのだが、
そこに至って漸く書類にできた黒い水溜まりに気付いた様で、軽く肩を揺らす。
総司は片付けようと左手から声をかけたが、彼は右手から丸めた半紙を投げ捨て、無用の意を示した。
言葉にすらしてもらえない事に落胆した総司は、「失礼しました」と力なく言い残してそこを後にした。

(問答無用で拒否だもんなぁ…調子の善し悪しなんて考えてないんだから…)
ぼんやりとそんな事を思いながら総司は部屋へ戻ったのだが、
無視までされた事から若干の苛立ちと反抗心が芽生え、刀を腰にした。
遊びに出て叱られる事には、もう慣れている。





その夜、総司が行灯の火を消すのを見計らったかの様に、程なくして廊下に気配を感じた。
本当は一人で過ごす筈の部屋では無いのだが、池田屋以降は斉藤が気を使って別室で就寝するようになり、
総司の調子が戻った今でも、斉藤は別室で休んだり、時には廊下で座ったまま眠るようになっている。
蛇足だが、それが斉藤の気遣いであるとは分からない総司は、嫌われた為であると思い込んでいる。

「どうしました?」
障子が開けられるのと、総司のかけた声が重なった。

「起こしたか」
後ろ手に障子を閉めながら土方がかけたその言葉に首を振ってみせ、
代わりに手を伸ばすと、土方はその手を拾って包み、枕隣に腰を下ろした。
「今日も遊びに出たらしいな」

緩やかに掴まれた手。
伝わるのは、優しい温もり。

「お仕事は?」
「どうにでもなる」
聞くな、と言いながら土方は総司の手や指に口付けを落とし、時折指先を口に含んで優しく噛む。
背中に甘い痺れを感じながら、総司は愛おしい彼の端整な顔を見つめ、
形の良い唇に含まれる自らの指を見て頬を染めた。

こうして触れ合うのは随分久し振りのことで、未だ手しか触れられていないというのに
多少の艶を含んだ吐息を漏らしてしまう自分を恥ずかしく思いながら、総司は土方に非難するように声をかけた。
「土方さんは、矛盾してますね」
「あ?」

土方は訝しげな表情で、総司に視線を合わせた。
「私に寝てろと言った癖に…こんな事してる」
「馬鹿野郎…お前がもう平気だと言うから、本当か確かめてんじゃねェか。あぁ、だが…」

そう言って口角を上げた土方は、遠慮もなく布団を捲って総司のすぐ横にうつ伏せになり、
裾を割って内腿から付け根の辺りをゆっくりと撫で回しながら、そっと耳に言葉を放り込んだ。
「息苦しそうにしているから、今日は遠慮しておくか」
恥ずかしさともどかしさを隠す様にクスクスと笑う総司の口を、土方は己のそれで塞いだ。
だが、深追いはせずに少し触れただけで、唇を離す。

土方が上体を上げて愛しい顔を見下ろせば、彼は少し恥ずかしそうに微笑んでいた。
「これじゃ、眠れないよ」
「…どうして?」
「…いじわる」

何気ない言葉を交わし、身を繋ぐ喜び。
2人で過ごす甘い夜は、総司にとって至福の時だった。





翌日、やはり隊務から外された総司は、壬生寺で子供たちと戯れていた。
独楽を回してみせる八木家の兄弟を眺めながら、己を挟む女の子たちと談笑する。
…本当ならば、隠れんぼなり鬼ごっこなり付き合ってやりたいのだが、
昨夜久々に交わった身で走り回るのは、どうにも難儀であったのだ。

他愛も無い会話を繰り返すうちに、急に傍らの女の子が真剣な顔をして言い出した。
「なぁ沖田はん、幸せってどういうこと?」
「え?」
「うちにはよう分からへんねや、教えてぇな!」

この子は一体、何歳だっただろう、などと思いながら、総司は真剣に応えを返す。
「何だろうね…好きな人が、自分のことを思ってくれている事が幸せ、じゃないのかな」
「へぇぇ、そうなんや…」
「うちにはよう分からんなぁ…」

(遠く離れていようと隣に居ようと、互いを思う事が…)
京に来るまでは、想い人の隣にいることが唯一の幸せの形だと思い込んでいた。
だが、例えそれが仕事の為であっても、花街に行けば持て囃される土方に添うためには、
自分にそう言い聞かせて、離れている時間を耐えるより他になかったのだ。

「なら、沖田はんは好きな人おるん?」
「みんなの事も好きなんだけど、伝わってない?」
「あ、ずるや!ほんまはおるんやろ!」
やはり女の子はませている、などと思いながら、総司は笑顔で誤魔化そうとするが
厳しく追求されてしまい、それに合わせるかの様に頭の奥に一瞬、ひやりとした感覚が走った。

「沖田はんは、どうして好きになったん?」
また頭の芯が冷えるような感覚を覚え、今度は焦点が合わなくなる。
その妙な調子を振り切ろうと、総司は軽く首を振った。

「どうしてって…」
焦点は首を振ることで多少戻るものの、やはりどこか霞のかかった様な状態が続く。
(どうして好きなんだろう…土方さんといて、幸せだと思うのは何故…?)
頭の中でその言葉を復唱するうちに、声が重なった。

(誰だろう…)
幸せについて問い掛ける、女の声が聞こえる。
徐々に明瞭になるその声に、総司は鳥肌を立てた。


『ねぇ、幸せってどういうこと?』


「……っ…!」

それが誰のものであるか判じた瞬間、総司の焦点は完全に合わなくなり、同時に意識が揺らいだ。
思えば、あれが最初の罪だ…無邪気すぎた己の犯した、最初の罪。

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漸く更新です。うぅ…纏まらない…今作は史実をベースに考えたのですが、史実と照らし合わせると矛盾だらけなので、
ちょっとした点は見逃してやってください。笑 このお話の総司は、他の作品よりもちょっと積極的な感じです。(2006.4.15upload)