「じゃあ何だ?お前が嘘吐きになったのは、俺の所為だって言いてぇのか?」 「あ、そうかもしれませんね!嘘吐きな歳三さんを庇う為に、私が嘘吐きになってしまったのかも」 「よく言う」 土方は鼻で笑いながら、疾うに意味を無くしていた帯を引き抜く。 彼の利き手を摘んで形ばかりの抵抗をみせながら、総司は懐かしむように目を細める。 「まぁ、あなたと私が嘘吐きでも、動物は正直ですよね」 「…いい加減に忘れろよ」 「絶対、忘れない。だって―」 下帯に手を掛けられた総司は続く言葉を飲み込み、愛撫に備えて息を詰めた。 野芳―4 それから数日が経ち、歳三は試衛館へと帰ってきた。 珍しく数日を空かした事に誰もが疑問を投げ掛けたが、歳三が真面目に取り合う気配もなく、 その理由はともかくとして、長屋を借りた事は事実なのだろうと試衛館面々の間での見解だけはまとまった。 とは言え、顔立ちと振る舞いからただでさえ目立つ歳三のこと、 隣近所でも様々な憶測が噂されるようになっており、それは試衛館にも届いていた。 あまり良い気分のするものでは無いだろうが、本人がそれを耳にしても、 肯定・否定の言葉は一度たりとも聞くことは叶わなかった。 それゆえ、噂は尾鰭をつけて更に広まってゆき、更に言えば誰も止めようとはしなかった。 そんな歳三と宗次郎の関係はと言えば、やはりぎこちなさが先に立つ様なもので、 周囲が期待するような情報を宗次郎が得る事は無かった。 この日も、宗次郎は稽古前に干しておいた着物を取り込んでいた。 剣術を習い始めてからは雑用としての仕事はかなり減ったものの、 洗濯に関しては相変わらず、全面的に宗次郎の仕事となっているのだ。 近ごろ、洗濯前の洗い物を入れた桶を原田や永倉が調べているらしいという事を歳三から聞かされた。 彼らが調べるのは言わずもがな、歳三の着物の白粉や移り香であるが、 己の着物を調べられるのはやはり気持ちが悪くて仕様がないらしい。 だから最近では、歳三は着衣後の着物を宗次郎の部屋へ投げ込むようになっていた。 事情を理解した宗次郎は、歳三の着物だけは別に扱う事にしている。 洗い物を畳んで自室へ戻れば、今日もいつの間にか見慣れた風呂敷が投げ込まれている。 それを拾い上げて桶と洗濯板を持ち出し、井戸端から少し離れた場所で2度目の洗濯を始めた。 西の空が美しく焼かれ始めている。 (日のあるうちに、少しでも乾くといいけど…) そんな事を考えながら空を見上げた宗次郎が足元に気配を感じて視線を下ろすと、 昔から宗次郎によく懐いていた、あの猫が体を擦り寄せていた。 まるで犬の様に大きくなった体は、この猫が宗次郎とは別の者に愛想を振りまいて餌を請うたか、 いずこからか食料を掠め取ったからに他ならないだろう。 …この特定の者以外には無愛想な猫の場合、後者の方が有力ではあるが… 洗濯板に勢い良く擦り付けながら、着物の汚れを落としてゆく。 作業の最中(さなか)の宗次郎が猫に視線を送っても、 返るのはただの鳴き声だが、宗次郎には猫が呆れている様に思えた。 だが、宗次郎はその作業を手間がかかる、などとは思わない。 己の所為で誤解を受ける歳三への感謝と申し訳なさからの行為― ―のつもりだったから。 その真相を知るのは、それから数日後のことだ。 昼食後、道場で試合う門人たちの声を聞きながら、外で1人素振りをしていた宗次郎のところに、 いつも通りどこかを徘徊していた猫が戻ってきた。 朝夕の餌時以外にやって来るとは、珍しいこともあるものだ。 「どうしたの?」 素振りを止めて問い掛ける宗次郎にやはり答えはなく、 猫はその代わりに母屋の方の物干しから何かを引っ掻き落とした。 朝に洗ったものはもう取り込んだから、いま物干しにあるのはみなの道着とそれに紛れた歳三の着物だ。 猫が細いそれを器用に咥える様を見ていた宗次郎は、それが何か判じかねていたのだが… (…あれって、歳三さんの…腰紐!?) 気付いた瞬間に、手にした木刀を足元に置いた。 あれがなくては、あの洒落者の格好が落ち着かない―――何としても取り戻さねば。 誰にともなく頷いた宗次郎は、しゃがんで近くに生えていた猫じゃらしを引っこ抜き、 猫に向かってゆるゆると振ってみせた。 「おいで!遊ぼう?」 しかし、常日頃ならば一発で効果をみせるそれも、なぜか効かなかった。 それどころか、猫は歳三の腰紐を咥えたまま、 その体躯からはおよそ想像もつかぬ早さで、敷地外へと飛び出したのだ。 「あ、待って!歳三さんの腰紐…!!」 敷地を出た猫を追って、宗次郎も駆け出した。 (どこに行くつもりなんだろう…?) 気紛れな猫を追って、細い横道や行き交う人々の間を縫って小走りする。 夢中で追ってきた為に気付かなかったのだが、既に宗次郎の知らぬ場所まで来ているようだ。 こうなっては、意地でも猫に付いて行くしかない… そう覚悟を決めたその直後、ある家屋の前で猫は足を止めた。 一息遅れて追いついた宗次郎は、 少し乱れた呼吸を調えながら、周囲を見渡した。 沢山の戸があまり間を開けずに並んでおり、狭い通路の遠く先には、 共同使用なのだろう、湯のみなどを手にした女性たちが井戸端に集まっている。 最初は荷置場かと思ったが、どうやらこれが長屋と呼ばれるものの様だ、と 宗次郎は初めて目にした長屋をそれと判断した。 (でも、誰の家かな) そう思った時、猫が建て付けの悪い戸を爪で引っ掻き始めた。 お世辞にも丈夫そうとは言えぬその戸が壊れてしまうのでは― 宗次郎が慌てて猫を抱き上げた時、中から女性の声がした。 まさか、女性の家に餌を求めて上がり込んでいたのだろうかと案じた宗次郎は、 顔面蒼白になって、近くにあった消火樽の影に身をひそめる。 …束ねた髪の先が覗いているのは、ご愛敬だ。 程なくして、反駁するように金切り声をあげながら女性が飛び出してきた。 少し乱れた髪や彼女が叫んでいる様子からして、痴情のもつれでもあったのだろう。 (じゃあ、あの女の人の家じゃないんだ…) 手元から抜け出して行こうとする猫に視線を移し、咥えていた腰紐を取り返した時、 女性の独り言の様な言葉が宗次郎の耳へ流れ込んだ。 「―ほんとうに…全て、嘘だったの…?…歳さん」 いつまでも答えようとしない相手に、俄かには信じられぬ事実を確認する様子で呟くと、 彼女はしばしの間、濡れた瞳で開いたままの戸を見つめ、やがて肩を落として去っていった。 (歳さん…?) やけに大きく聞こえたその名。 似た名前など、どこにでもいるだろう。 でもまさか、と己の中で浮かんだその長屋の主の姿を否定しながら 宗次郎は軽く目を閉じたが、この場所と件の噂を思い出し、立ち上がった。 ―ここは長屋だ。 噂が本当ならばここに歳三がいて、動物たちを養ってくれているのかもしれない。 先程見た女性の姿のことを記憶の隅に追いやった宗次郎が抱き上げていた猫を下ろしてやれば、 丸々とした尻を振って甘えた声で鳴きながら、躊躇無く例の一室へと入って行った。 その姿に多少の確信じみたものを抱きながら、宗次郎は長屋の中を覗き込む。 万一間違っていたら無言で覗き込むなど失礼極まりない、などという考えは最早浮かばなかった。 「…随分と勝手な言い草だったなぁ?」 覗いた狭い部屋では、褌をして衣を肩に掛けただけの状態の歳三が 両手で持ち上げた猫に向かって少し首を傾げながら、問い掛ける様に呟いていた。 「…としぞう、さん?」 「―宗次郎!?お前…どうして、ここに」 「その子が、腰紐を持ってっちゃって…追いかけて来たんです」 遠慮がちに宗次郎が声を掛けると、歳三はかなり驚いた様だったが、宗次郎を中へと促した。 戸を閉めて狭い長屋へと上がると、そこは宗次郎の予想以上に狭かった。 歳三が座っていた場所には薄い煎餅布団が敷かれており、それが部屋の大半を占めているようなもので。 動物は一体どこにいるのだろう、と素直な疑問を抱いた宗次郎が端座して傍らの歳三を見上げれば、 彼は不機嫌そうな表情で夜着の様な着物を纏い、ゆるく帯を結んでいた。 「…ここ、歳三さんの家ですか…?」 「そう、だな…」 宗次郎が単刀直入に問い掛けると、歳三も至って平然と応じた。 そして訪れる無言の間が、何とはなしに宗次郎を恐慌させる。 「さっきの女の人…」 「お前には関係ないだろ」 「でも、泣いてた」 「………」 いくらお初な宗次郎とは言え、乱れた着物と女性の涙、 そして歳三の沈黙から、何となく状況を理解しつつあった。 長屋で動物たちを養ってくれているというのは、嘘だった。 ―でも、それでも。 本当を理解する事が出来ても、受け入れる事を拒絶している自分がいる。 信じたくないが確認せずにはいられない事実を思い、宗次郎は口を開いた。 「歳三さん、ここで遊んでるの…?」 何も考えずとも、自然に乾いた笑みが浮かんでしまう。 喉の渇きを感じている訳でも無いのに、声が掠れた。 「…簡潔に言えば、そうなるな」 「嘘だ…剣術をする為に、日野から出てきたんでしょう!?」 「………」 「あなたはッ…!真剣な若先生に、失礼だと思わないんですか!?」 返された言葉は、やはり己の望んだものとは異なるのだ。 確認するように問い掛けて返された無言は、肯定の意に他ならない。 それを理解した瞬間に溢れ出した感情に流されて、自制の効かぬまま怒鳴った宗次郎に対し、 それまで黙り込んでいた歳三は冷たく一瞥を返すだけで、すぐに視線を逸らした。 「なら、お望み通りに試衛館を出て行くさ。お前から勝っちゃんに伝えておけ」 曇った瞳は、憧憬に似た様相で小さな庭から美しい空を映す。 そこに満ちた虚無感が気取れる程、宗次郎は大人ではなかった。 「どうしてっ!?そんなの勝手な…!」 「俺の勝手だろ?勘違いするなよ、これぁ俺の人生なんだ。好きに生きさせてもらう」 確かに、そうなのだ。 ただの内弟子の自分が、歳三の人生に口出しして良い筈がない。 それを言われてしまえば否定の仕様が無いのだが、黙って引き下がる訳にもいかなかった。 ―歳三は既に、宗次郎が試衛館にいて剣術を学ぶ、目的となっていたから。 「あなたがいなくなったら、どれだけ多くの人が変わっていくと思ってるんです!?」 「知ったこっちゃねェ。第一、俺が試衛館に来て誰の人生が変わったんだ」 「ほんとうに、分からないんですか…?」 何の話だ、とでも言いたげな視線を向けて小さく頷いた歳三が すぐ傍にあった煙管を手に取ろうとした時、宗次郎は一瞬早くそれを奪った。 苛立たしげに舌打ちをした歳三が彼を睨みつけると、思いがけぬ光景があった。 宗次郎が、その柔らかな頬に雫を滑らせていたのだ。 「あなたが試衛館に来てくれて、みんなが少しずつ纏まって… でも、それよりも…ぼくっ、僕が、どれくらい嬉しかったか…!」 「………」 「あなたは、誤魔化してばかりで…僕は、言葉一つで、こんなに悲しくなって… 僕とは全然違う…歳三さんは、みんなに、必要とされてて… どうして分からないんですか…?気付かないままで、そんな勝手っ…―――」 「―悪かったな…宗次郎、悪い」 己の抱く感情の全てを把握できず、言葉を詰まらせながらこみ上げるままに 思いをぶちまける彼を、歳三は思わず抱き締めていた。 この子供が自分に対して倦厭する姿勢を見せながらも、 その実、己の来訪を誰よりも喜んでいたことを、本当は知っていた。 しかし、試衛館で剣を学ぶほどに己の限界が徐々に分かり始め、 同時に成し遂げたい野望との距離が見え、進むべき道を見失ってしまった。 そして、気の赴くままに女遊びへと逃げ出たのだ。 (こんなガキでも、前を向いて歩んでるのにな…) 親が子供を宥める様に胸元に抱き込んだく頭を優しく撫でてやると、 宗次郎は突っ張るように手を出したが、彼はそれを無視して強く引き寄せた。 他人の為に流す涙の美しさを、歳三はこの時初めて知った。 |