「急に大人しくなったから、あの時は気味が悪かったな」 「もう、言わないで下さいよ!何度も謝ったのに」 「すまんな。だが、俺に謝った時のお前の情けない顔…一生忘れんだろうな」 土方は肩を揺らし、くつくつと笑う。 口を尖らせた総司は、己の髪を梳く土方を睨みつけた。 「あの時初めて私の顔を見たんじゃないですか?あれだけ無視してた癖に、よく言いますよ」 「無視してたのはお前だろ?悪戯を叱ろうとする度に、都合よく逃げやがって」 「あれが、私にとっての遊びでしたから。誰かさんと比べれば、可愛いものでしょ?」 身体ごと土方へ向き直った総司は、悪戯な笑みを浮かべて目の前の唇を啄んだ。 野芳―3 いつしか試衛館道場では、井上や内弟子の沖田の他、数人の食客が寝食を共にするようになっていた。 お陰で出稽古や道場破りの対応に難儀する事は無くなったのだが、 飯炊きの量が急増したために家計は火の車、 そのうえ、日中は大騒ぎで御隠居の奥方はすこぶる不機嫌となっていたが、 宗次郎はこれまでにない賑やかさに、密かに胸を踊らせていた。 昼食を囲む試衛館はいつも賑やかで、給仕を手伝う宗次郎の忙しさも極まる。 この日も、おかわりの器を受け取っては盛り、受け取っては盛り…の動作を繰り返しながら、 彼らの会話に耳を傾けていた。 「なあなあ!聞いたか!?」 得意気な原田がそう切り出すと、相方と言い表せる程の意気投合を果たした永倉が 「何を?」 と、決まり文句を投げかけた。 続く言葉を、宗次郎を含めた全員―天然理心流の襲名を控えた勇と、ある1名を除いた5名―が待つ。 「実はな…歳さんがさ、佐藤さんに金子を頼んだんだとよ!」 「「はっ!?」」 「…なんだって?」 永倉と藤堂の驚愕から半拍遅れて、山南が眉をひそめた。 宗次郎は平然としたまま、原田の茶碗を受け取る。 しばらくは薬売りの行商をしていた歳三が試衛館に腰を落ち着かせるようになったのは、 ごく最近になってのことだ。 試衛館を帰るべき場所と定めている事に間違いはなさそうだが、 毎日のように、ふらふらとどこかへ出掛けて行くことも既に周知である。 そんな歳三が日頃どのように行動しているのか、 およその見当はつきながらも誰もが気にかけていたから、 この話に食いつかぬ者など、この場にはいない。 加えて、そんな歳三の行為に激昂する唯一の人物も、この場にはいなかった。 「どうしてかって聞いてみたらよ、どうやら長屋を一件借りたらしいんだ」 「…意図が分からないな。歳さん家は金持ちなんだろ?わざわざ狭い長屋を借りる必要なんて…」 永倉が首を捻ると、原田は腕を伸ばして永倉の言葉を遮り、鷹揚に頷いた。 「それが、佐藤さんには動物がどうとか言って借りたらしいんだが…」 その言葉に宗次郎は、歳三の姉・おのぶの嫁ぎ先に未だ預けたままの動物たちを思い描いた。 かつて、宗次郎が拾った動物たちを歳三が多摩へ連れ帰ることで守ってくれたという 事実が発覚した際、宗次郎は全ての動物を試衛館へ連れ帰ると言い張ったのだが、 歳三はそれを許さなかった。 命を守る為の己の行為を無駄にするつもりか、と。 そう言われてしまえば、それ以上に反抗などすることもできず、 宗次郎は一番懐いていた猫だけを連れ帰ったのだ。 歳三と正直に腹を割って話し合ったのは、後にも先にもあの時だけだ。 全ては己の幼さと考えの甘さが悪いのだと幼心にも理解し、その悔しさから時折悪戯をすることはあったが、 それ以来、歳三との関係がぎこちなくなっているのは確かだった。 昔の様に、素直に背中を追うことが出来なくなって久しい。 原田の言う『動物』とは、日野に残されたあの捨て猫・野良犬のことだろう。 また彼と彼の家族に迷惑をかけたのかと思うと、情けなくて申し訳なくて仕様が無かった。 「その言い訳は怪しいな」 合点のいった宗次郎に反して、永倉は疑念を抱いたらしい。 だが、宗次郎は何一つ口にするつもりはなかった。 …あのことは、彼と自分とが共有する罪であり、秘密であったから。 「だろ?…黛を落籍するつもりなんじゃないかと、俺は思うんだよな」 「「えぇっ!?」」 「でも、太夫相手にまさか長屋はないだろ?」 再び、意気の合った驚愕をみせる永倉と藤堂を尻目に、 一番の年長者である井上が疑問を口走った。 「…黛とは?」 「なんだ、知らねぇの?吉原の火炎玉屋の太夫だよ!」 「歳さんにしては、随分長い付き合いだよな?それにしても、よく太夫なんかに手を出せたな…」 「絡まれてるのを助けてやったのが縁だとか―」 語られる黛と歳三の遍歴を耳に流し込みながら、 宗次郎は込み上げてくる怒りとも悲しみとも似つかぬ感情に恐慌していた。 己が怒り悲しんでも仕様もないと理解しているのに、行き場の無い思いが宗次郎の心をかき乱す。 しゃもじを持つ手が、微かに震えた。 こんもりと飯を盛った茶碗を原田に渡すと、急に彼は振り返って宗次郎を見上げた。 「おい、宗次郎はどう思う!?洗濯物に変な粉とか、付いてないか?」 「え…?」 まさか己に会話が振られるとは思っていなかった宗次郎は、 思いがけぬ言葉に一瞬、表情を強張らせてしまった。 それに気付いた原田は、それが肯定の意であると解したらしい。 「やっぱり、そうなんだな!?」 「…ってことは、今日も黛のところへ…?」 唖然とする宗次郎に再び背を向けて、勝手な会話が進んでゆく。 流石にこれは、否定をしておくべきではないだろうか… 恩を仇で返すような行為はしてはならないと、姉から散々聞かされていた宗次郎は、 あらぬ誤解をかけられてしまう前に、会話を中断させなければと声を発した。 「な、何言ってるんです、白粉なんて付いていませんよ!」 彼が珍しく声を荒げて反駁すると、各人は一斉に向き直った。 しまった、と思った時にはもう遅い。 宗次郎は俯いて、なんでもない、と呟いたが、それに耳を貸すような面々ではない。 「…宗次郎がそんなに慌てるなんて、珍しいな」 「別に、無理して歳三さんを庇う必要なんて無いんだぞ?」 本当の事を言えと態度に示したまま、原田と永倉は宗次郎の顔を覗き込んだ。 庇ってなどいないと首を振るものの、揶揄する様な視線に自然に顔が熱くなってしまう。 「庇ってなんていないけど…」 何事にも細心の注意を払う彼のこと、着物に白粉や紅が付いていたことは無い。 …拭いきれぬ女の香りは、幾度と無く嗅がされてはいるけれど。 (僕の所為で迷惑をかけてる事は、絶対内緒にしなきゃ…) そのうえで、歳三の立場が悪くならないように誤魔化さなければ。 自分がうまく話を逸らすことが出来たなら、きっと、いらぬ種を蒔かれることもない筈だ。 そう思った宗次郎は、爽やかな笑顔を繕って顔を上げた。 「そんなの、今更騒ぐことでも…歳三さんなら…いつでもやりそうじゃないですか! ほら、それよりも、今まで女の人と一緒にならなかったのが不思議な位でしょう?」 宗次郎が捲くし立てるように言葉を吐いた後、食客たちは静まり返った。 その様子から、思わず口走った言葉が歳三を貶めるものだった事に気付いた宗次郎が息を飲むと、 堰を切ったように笑い声が響き渡った。 「そりゃあ、そうだ!」 「確かにな!いやー、昔から一緒にいるってのは伊達じゃねぇな!宗次郎」 「あまり感心は出来ないが…」 山南の言葉に軽い言葉を返す原田は、笑いながら宗次郎の背中を豪快に叩いた。 背中を叩かれて出た咳の所為にして瞳を潤ませながら、宗次郎は心の中で歳三へ謝罪を繰り返した。 …この日ほど、宗次郎が己の話下手を呪ったことはなかった。 |