「え、そんな事しましたっけ?」 「しただろう。忘れたとは言わせねェよ!俺がその猫どもを…いや、あれは俺に抱かれた女に妬いてたのか」 一人納得して頷く彼に、総司は慌てて「ちょっと…!」と口を開く。 沈黙すれば、肯定と取ったこの男が調子に乗るに違いない。 「何で妬かなきゃならないんですか!目つき悪いし意地悪だし移り香が臭いし… 土方さんになんて、これっぽっちも興味ありませんでしたよ」 「言うじゃねェか…まぁ、随分な嫌がらせを受けたもんだが、今は俺に興味深々だもんなァ?」 「………」 黙り込んだ総司は、後ろから腰を抱く彼に思い切り肘を突く。 土方の視界に映る膨れた頬は、淡く染まっていた。 野芳―2 「宗次郎!今日は随分機嫌がいいな」
朝から忙しなく働いていた宗次郎の隣へと来た勝太は、伸びをしながら話し掛けた。 「おはようございます、若先生!だって、出稽古を任せてもらえるなんて思わなくて…」 そう、今日から泊まりで日野へ出稽古に行くのだ。 勝太について何度か同行した事があるのだが、今回は初めて勝太抜きで行くように頼まれた。 土方同伴と言うのが少し引っ掛かるものの、教えるのは自分…宗次郎にすれば、大仕事を任されたと言っていい。 彼は、期待と喜びで胸を弾ませていた。 「しっかり頼むぞ、宗次郎!」 「はい!終わったらお部屋に行きますね!」 宗次郎が満面の笑みでそう告げると、勝太は彼の頭をぽんぽんと叩いて母屋の方へと歩いて行った。 「…で?どうして俺があいつなんかと、出稽古に行かなきゃなんねェんだよ?」 母屋の自室で、客人として泊まっていた歳三に睨まれた勝太は、彼を制する様に手の平を見せて苦笑するように笑った。 年齢を重ねるにつれて、勝太のその様な表情を目にすることが多くなってきた気がした歳三は、 道場へと養子に入っている彼の苦労を思い、ふいと視線を庭先に逸らせた。 「まァ、そう言うなよ歳。どうせ、しばらく行商で帰ってなかったんだろ?おのぶさんの顔でも見てくればいいじゃないか」 「……」 「それに、俺が一緒だと宗次郎には任せられんだろ?出稽古を任せる事は、宗次郎にとってかなり良い経験になる。 収獲の時期の今なら、普段よりは門下生が少ない筈だから、少しずつ任せてみて経験させてやりたいんだ。 あいつ1人じゃ、泊まっている間も気が休まないだろうし…一緒に歳がいれば、多少気楽だろう?ちゃんと休むように、計らってもらいたい」 (気楽どころか、あいつは俺の事を疎んでるだろうよ…) そう思いながらも、歳三は腕を組んで思案する姿勢をとった。 確かに、勝太の言う事は理に叶っていた。 稲の収獲の時期である今は、―道場としては、決して喜べる事では無いが―本来の仕事に追われる農民が多く、 多摩まで出稽古に赴いたとしても、普段ほどに門下生が多くは集まらないのだ。 歳三は、宗次郎の太刀筋が優れているということを耳に胼胝が出来るほど聞かされているし、 実際に試合を目にする機会を得た事があり、その時に己の目で十分に確認していた。 恐らく、勝太は宗次郎をただの門下生で終わらせるつもりはないのだろう。 まだ未熟な部分も多いが、今のうちから、人に教えるという事を学ばせるつもりなのだろう。 「まぁ、あいつが俺の言うことを聞くか、分からねェけどな…」 しばしの躊躇の後、歳三は不請不請に頷いた。 宗次郎はその話を終えた少し後に、勝太の部屋へと入って来た。 …恐らく、話の区切りのよいところまで待っていたのだろう。 促されて室内に入った宗次郎は、2人の向かいにちょこんと端座する。 「宗次郎。初めて師範を任せる事になるが、気負わずにやるんだぞ」 「はい」 「立ち合いの時、少しは手加減してやるように」 「はい」 「それから、打ち込む時は相手を選ぶんだぞ」 言いながら、勝太は横目に歳三を見やる。 彼が俺はやらねぇよ、と慌てて手を振ると、宗次郎は面白そうに表情だけで笑う。 だが、その表情が嘘であったかの様に、すぐに真面目な顔に戻った。 「はい、気を付けます」 「出された食事は残さず食べるんだぞ?」 「頑張ります」 「体調が優れない時は、ちゃんと歳かおのぶさんに言うんだぞ?」 「…はい」 最初は出稽古らしい内容であった会話はじきに息子に言い含める様な内容へと移ろい、 そこに歳三の名が入ると宗次郎は僅かながら不満の様なものを滲ませた。 (可愛くねぇガキだ…) 宗次郎のその態度は、歳三自ら、嫌われても構わないと思って行った行為が元である事が分かっているのだが、 分かってはいても、やはり不貞腐れた様な子供は可愛いとは思えない。 しかし、その様な理由があろうとも、彼が気になって仕方がないという事実… それが苛立ちの最大の理由であることに、歳三自身はまだ気付いていなかった。 「じゃあ、よろしく頼んだぞ」 「はい。行ってきます」 玄関先で草鞋を締めた宗次郎は、心配性の勝太に飽きもせずに笑顔を返した。 もし受け手が彼でなければ、いい加減にしてくれと溜め息交じりに零しているに違いない。 2人のやりとりを玄関先からうんざりした表情で眺めていた歳三は、 急ぐ様子もなく、漸く立ち上がって、憂いている勝太を見やった。 「歳、頼んだぞ」 「ああ。眠れないようなら、子守唄でも歌ってやらぁ」 軽く笑って、歳三は友人の肩を軽く叩いた。 出立が昼過ぎにずれ込んだ為、日野の佐藤家へと到着したのは既に夕刻のことだった。 殆ど無言のまま歩き続けていた2人は到着後も言葉を交わす事は無く、 通された居間へと宗次郎を置き去りにして、歳三はどこかへ行ってしまった。 流石に驚いて思わず呼び止めかけた宗次郎であったが、名を呼ばれたて振り返った彼に、 いつもの様に「なんでもない」と言って俯いてしまった。 (都合よく頼るなんて…そんな事しちゃ、いけない) 居間で端座した宗次郎は、ゆるゆると首を振った。 ある時、宗次郎が可愛がっていた犬と猫が、急にいなくなった。 宗次郎が捨てられた動物を連れ帰り、餌を与える事を知る人物は数人いるが、 それが発覚して怒られてからも繰り返している事を知っていたのは歳三だけだった。 だから、少しずつ犬猫たちが減っていく事に気付いた宗次郎は、 歳三が己の願いに耳を傾けることなく、非情にも殺したに違いないのだと思った。 それからと言うもの、友人とも言える動物たちを自分から奪った歳三を倦厭し、悪戯を繰り返す様になった。 家主に無断でそんな行為をした己が悪いのだと理解していたから、 自分は単に八つ当たりをしているのだと、そう気付いた時に悪戯は止めたのだが、 それからと言うもの、歳三にどういった態度をとればいいのか分からなくなってしまい、遠ざける様になったのだ。 どうすれば元の様な関係に戻る事ができるのか、宗次郎には答えが見えない。 汗を拭きながら佐藤彦五郎がやってきたのは、何度目かの溜め息をついた頃だった。 「お待たせして、すまなかった。今回は、宗次郎君が稽古をしてくれるそうだね」 「はい。若先生の様に、とはいきませんが…よろしくお願いします」 「厳しく頼みますよ?」 人の良い笑顔を浮かべた彦五郎と他愛も無い話をした後、 「ところで…」と切り出した彼は、少しきまずそうな表情をしてみせた。 「はい、なんでしょう?」 「君の、あの動物たちは…いつまで預かっていればいいのかな?」 「…どうぶつって…?」 長いこと自ら遠ざけていたその単語に、宗次郎は首を傾げた。 「歳三が、君の動物を預かっているだろう。小屋にいるから、様子を見てやってくれるかい?」 彦五郎に言われた通り、離れの傍に建てられた小さな小屋には数匹の犬猫がおり、 宗次郎がその小屋の中へ入ると、その中でもまだ若そうな猫が鳴きながら擦り寄ってきた。 それは、かつて宗次郎が拾い育て、歳三に全てを知られる切欠となった猫。 抱き上げられた猫は宗次郎の事を記憶に留めていたのか、宗次郎の手を舐める。 話によれば、宗次郎の秘密を知った歳三は、少しずつ犬猫たちを日野へと連れて行っていたらしい。 そして、宗次郎が可愛がっている動物たちだが、今のままでは殺されかねないから預かっていてくれないか― ―そう、彦五郎に頼み込んだらしいのだ。 「…あの人が、君を守ってくれたんだね」 宗次郎は随分と大きくなった猫の体を撫でながら、何かを堪える様に眉間に皺を寄せた。 本当の事は何も言わずに守ってくれていたあの人に、自分は何と愚かしい事をしてしまったのだろうか。 宗次郎の心の中は罪悪感と感謝、そして、言葉にならぬ想いでいっぱいだった。 |