「初めて会った頃は、本当に物静かで扱いに困ったな…」 ぽつりと、零すように言葉を紡いだ。 届けるつもりのなかったそれは、総司の耳にしっかりと掬われていたらしい。 「今もそうじゃないですか。大人しくて物静かで、それでいて強くて頼りがいが―」 「うるせぇ、笑わせんな。お前がそんなこと言っても、誰も聞きやしねェよ」 「あ、ひどい!今あなたが言ったんじゃないですか」 「誰が頼りになるなんて言った!手がかかるの間違いだろ!」 「えへへ…」 あの頃と変わらずに子供の様に笑う総司を見て、いささかげんなりとした面持ちでその口を塞いだ。 野芳―1 もうじき、宗次郎が試衛館に内弟子―実質的には、小間使いの様なものだったが― として入門してから、1年が経とうとしていた。 相変わらず、押しつけられる仕事に忙殺される日々であったが、試衛館での暮らしにも慣れ、 その暮らしの中で、宗次郎自身もいくつかのささやかな楽しみを見つけるようになっていた。 誰よりも早く目覚める宗次郎だけが知る、美しい日の出や小鳥の囀り。 お使いに出されて見る、季節の食材も宗次郎の好奇心を駆り立てる。 近頃、勝太がきまぐれに剣術の稽古をつけるようになった事…それも、楽しみの1つである。 そして、宗次郎には秘密の楽しみもある。 一人ぼっちでいる動物を拾ってきては、餌を与えているのだ。 試衛館に来たばかりの頃、掃き掃除の途中で敷地内に迷い込んだ猫に餌をやって怒られ、 ならばと全ての仕事を終えた日没後に餌を与えれば、それも怒られてしまった経験があるために、 朝早くにこっそりと道場の床下に潜ませていた動物に餌を与えることにしているのだった。 宗次郎が道場の床を磨いてから他者が立ち入る形になっている為、見つからずに済んでいるが、 万一発見されてしまえば、ある人物が動物たちを処分しろと喚き散らすに違いなかった。 だからこそ、宗次郎はこの秘密を守り抜いてきたのだ。 その日も宗次郎は東の空が明るくなる前に寝所を後にして、 昨夜のうちにこっそり作っていた握り飯を手に、静かに戸板を開けた。 母屋の裏手から静かに道場へと回り込む。 床下に入り込む場所は、井戸の向かいの1地点しかない。 その場所まであと少し、という所で、宗次郎は思いがけぬ人物に遭遇してしまった。 「あ…歳三さん……」 井戸の前で桶を手にしていたのは、宗次郎にとって最も厄介な相手だった。 思わず呼び掛けてしまった己の失態に悔しさを感じながら、慌てて握り飯を隠す。 「ん?あぁ…もう起きたのか」 ばつが悪そうな表情をした土方は、曖昧に応じて背中を向ける。 その様から、普段は寝坊ばかりの彼が朝早くから起床している理由を察し、 少し強気になった宗次郎は、溜め息をつく様に呟いた。 「また朝帰りなんですか?ここ数日、毎日じゃないですか…」 宗次郎には、彼が時折ふらっと現れて試衛館に泊まって行くのは、 花街から日野へ帰るのが面倒だからではないか、と思えてならないのだ。 そんな宗次郎の心境を察するに余りあるであろう土方は、それでも尚、そ知らぬ態度を保った。 「うるさい!ガキが口出しする事じゃねェ。 …お前こそ、こんな時間からこそこそと何をしてやがる」 話を自らに振られた宗次郎は、冷や汗をかきながらゆっくりと視線を逸らした。 「…何でもない」 「何でもない、なんて事はないだろう。お前、掃除も洗濯もこれからだろ?」 「………」 宗次郎は押し黙り、仕方なしに踵を返してその場を去ることにした。 足音が続かぬ事に安堵する宗次郎だったが、その代わりに刺すような視線を感じた。 「…なんですか?」 居心地の悪さから振り返った宗次郎に、やはり歳三は厳しい視線を向けていた。 しかし、厳密に言えばその視線は己ではなく、己の足元付近に向けられている様だ。 宗次郎が彼に合わせてそちらを見やれば… 「あっ…!」 そこには、宗次郎が必死で隠してきた猫の姿があった。 今では数匹の犬猫に餌を与えているのだが、その中でも最も幼い猫が前後不覚なまま出てきてしまった様で、 宗次郎を見ると甘えた声で鳴きながら、擦り寄ってきた。 「出てきちゃ駄目だよ!」 その場にしゃがんで、何も分からず甘えてくる子猫を膝上に抱き上げると、歳三に背を向けた。 見逃してくれればいいと思う。 だが、そうはいかない事は分かりきっていた。 「それがお前の秘密か…」 背中からかけられたのは、予想通りの冷たい言葉。 歳三は女や勝太などには優しい言葉や穏やかな笑みを向ける癖に、宗次郎には決してそんな表情を見せない。 何をしても気に食わないと文句を言い続ける歳三に、宗次郎自身も強い苦手意識を抱いてる。 「……」 「駄目って言われてんのに、よくやるな」 「…誰にも、言わないで下さい…」 「ここの主にちゃんと断るのが筋だろ」 やはり今日も、宗次郎の願いに耳が傾けられる事はなくて。 これしきの事で何故か怒りまで抱いた様子の歳三に睨まれ、 どうにもできぬ悔しさから、宗次郎は思わず本音を呟いてしまった。 「この子は僕と同じ…他に行く場所なんて、無いんだ…」 その言葉に微かに表情を変えた歳三であったが、俯いている宗次郎はそれに気付かない。 結局、歳三は何も言わぬまま母屋へと向かっていった。 それから数日後、宗次郎が必死に隠していた猫たちは突然姿を消した。 誰かに告げ口したのか、勝手に追い出したのかは分からないが、 犯人が歳三であると確信していた宗次郎は、悪戯でのささやかな報復を開始した。 歳三の汁物には具を盛らなかったり、洗濯物を洗わなかったり、 彼が愛用している布団だけは、ずっと干さぬままでいたり… 大した事ではないと高をくくり相手にしていなかった歳三も、流石に黙ってはいられない出来事があった。 ある日、歳三の綺麗に洗濯された褌に、砂が挟んで畳まれていたのだ。 砂浜の様な、さらさらとした砂ではない。角の立つ、小石混じりの砂。 掃っても掃っても残る砂の感触… 「あのクソガキ…!!」 仕方なしにそれを身に着けた歳三は、すぐさま宗次郎を探した。 冷静に考えれば、洗って汚すなど宗次郎自身の無駄骨だ、と嘲る余地もあったはずだが、 その時の歳三は度の過ぎた悪戯に怒りを覚えるだけだった。 「てめェ、これは何のつもりだ!」 「何がです?」 「洗ったくせに砂挟むたぁ、どういうつもりだ!」 何のことか分からない、とでも言う様にとぼけていた宗次郎だが、 彼なりにあれこれと怒りを溜めていた様で、めずらしく真っ向から反抗する。 …歳三が宗次郎の素直な感情を目の当たりにしたのは、この時が最初ではなかったろうか。 「そんなの、女の人に綺麗に洗ってもらえばいいじゃないですか!」 「はぁ!?」 「どうせ女の人と遊んでるんなら、面倒見てもらえばいいでしょう!」 「なんだと!?このクソガキが…!!」 「遊んでばっかりの歳三さんにそんな事言われたくない!」 言うだけ言って逃げようとした宗次郎は、首根っこを捕まれて歳三に頭を叩かれ、 宗次郎の圧倒的劣勢で始まった喧嘩を見咎めて仲裁に入った 勝太から歳三は怒鳴られて、どうにかその場は収まったのだが、その喧嘩はしばらく続く事になった。 大人しそうに見えて、実は結構うるさくて。 ひ弱なくせに、我慢強さだけはいっちょ前で… そんな宗次郎の才能が露見するのは、その半年余り後のことであった。 |