霽月 (弐)



「・・・・ん・・」

少しばかり開いた障子の隙間から、煌々とした月明かりが一筋の光明として差し込んでいる。
庭先の松や寒牡丹も、きっと雨露を月に輝かせているのだろう。
その明かりの元で、布団だけを纏ったまだ幼い身体が、吹き込んだ風に僅かに震えた。

同じ布団の中、隣に寝そべっている男はそれに気付くと、
滑らかなその肌を楽しむ様に身体に添えていた腕に力を込め、ぐっと引き寄せた。
もう片方の手は相変わらず、眠ってしまった思い人の髪を優しく撫で付けている。

漸く手に入れた愛しくてたまらない者の寝顔は事の名残であろうか、いつになく美しく、自分を魅せる。
そんな顔を見つめながら、男―土方歳三は、差し込む月光にぼんやりと思いを馳せた。

(初日の出は雨で見れなかったが、明日は綺麗に拝めそうだな…)





(あーあ…雨が降っちゃった)
日頃の習慣か、それとも離れにある自室に響く雨音がひどかった為だろうか、
元日である今日も宗次郎は朝早くに目を覚ました。

晴れていればきっと周斎夫婦は元旦にお参りに行くだろうから、その間に少しは休めたのだろうが、
この雨足では行かないかもしれないと思い、諦めて布団を畳むと、寒い廊下を静かに台所へと向かう。

いつも洗濯や調理・盛り付けをしてくれている者が暇をもらっているため、宗次郎の仕事は日頃より多い。
試衛館に正式に入門してからは、宗次郎に課せられる雑務の量は減ったのだが、
今でも、この時期ばかりは下働きに戻ることになるのだ。

種々の煮しめは彼女が作り置きしておいてくれたのだが、
お雑煮だけは宗次郎が用意しなければならなかったため、火を起こしていた。
とは言え、九つの頃から下働きをしている宗次郎のこと、既にその料理の腕も手際のよさも大したものだ。
人々が起きだす頃には、七輪の上の鯛と睨めっこしながらうちわを扇いでいた。
昨夜から降り始めた雨が止まぬ為だろうか、土間で焼ける魚の香りがほんのりと屋内へ広がっている。

「なんだい、まだできていないのかい!?」
そんな宗次郎の頭に新年早々、おかみの嫌味が降った。
この人は『あけましておめでとう』の一言を交わすつもりも無いのだろうか、と
彼女の変わらぬ態に多少肩を落としながら、いつも通りに笑顔を返す。
「ええ、あと少しです。お待たせして、すみません」
「まったく、相変わらずの鈍間だね」
その後も小言を呟きながら踵を返した彼女の背中を見送っているうちに、漸く魚が焼きあがった。

与の重から一の重の順に、手際よく綺麗に品を盛り付けて、同時にお雑煮に角餅を入れて温める。
重箱の用意が出来た頃、道場跡取りである島崎勝太があくびを噛み殺しながら台所へと来て、
宗次郎の姿を認めると人の良い笑みを浮かべて声を掛けた。

「宗次郎、あけましておめでとう」
「あけまして、おめでとうございます!」
宗次郎がお辞儀をしながらそう言って体を起こすと、既に目前に来ていた勝太が宗次郎の頭を撫でた。
笑うと笑窪のできるこの人が大好きな宗次郎は、満面の笑顔でそれに応えたのだが、
ふと、今日でまた年を一つ重ねたはずの自分の大人気なさに心の中で苦笑する。

「何か手伝おうか?」
「もう出来ましたから、大丈夫です!お部屋で待っていて下さい」
勝太の優しい申し出を断り、宗次郎はお雑煮を盛り付けると、急いでその膳を運んで行った。



そして周斎らが食事を一段落させ、漸く宗次郎がお雑煮を口にした頃は既に昼であった。
「いやぁ、正月なのに悪かったな。朝から働き通しだろ?」
傍らの勝太は宗次郎に労いの言葉を掛けながらも、その表情は曇っている。
恐らく、養子として義父の相手をしなければならぬ事と、
宗次郎を手伝うことを許さぬ義母に逆らえぬ事に、やり切れぬ気持ちでいるのだろう。
まだ人の感情を分かってやれない宗次郎に、その葛藤は伝わらない。

「いいえ。慣れてますから」
「そうか…今日は雨もひどいし、お参りには行けなさそうだな…」
屈託無く答えた宗次郎に申し訳ない気持ちと頼られない少しの寂しさがこみ上げるが、
勝太は会話を移して、どうにか自分を誤魔化した。
「三が日の間には、初詣に行こうな」
「はい!」

そう宗次郎が返したとき、勝手口の方から人の声がした。
食べかけの雑煮を置いて様子を見に行こうとした宗次郎を制して勝太が出向いてみると、
その客は、宮川勝五郎と佐藤彦五郎と夫人・のぶであった。
宮参りのついでだとは言うのだが、雨の中わざわざ訪問してきた彼らへの応対は手を抜けない。
宗次郎が手ぬぐいやらお茶やらを出し勝太が接待し始めたかと思えば、程なくして宴が始まり、
息つく間もなく、酒やら食事やらを持って給仕に駆け回ることになったのである。

だからと言って、宗次郎が全く美味しい思いをしていないという訳ではない。
宗次郎自身は大して気にしていないのだが、周斎は妻が仕事を押しつけている事を
申し訳なく思っている様で、毎年、隙を見ては「菓子でも食え」とお年玉を与えてくれるのだ。
自由になるお金を手にすることが滅多にない宗次郎は、今年も額などお構いなしに舞い上がっていた。





そんな日の夕刻、いつの間にか人数も増えた宴に盛り上がる試衛館に、あの男がやって来た。

「宗次、今日も忙しそうだな」
「土方さん…!」
背中からかけられたその声を聞いただけで、それが思いを寄せる男のものだと容易に知れた。
振り返って向けた笑顔の先には、雨など降っていないかの様に整った様相の歳三の姿があった。

出会った頃はただただ嫌な男だと思っていたが、そのうちにぶっきらぼうな優しさに気付いた。
彼の抱く大いなる志に男として惚れ、彼の力になり彼を守っていこうと誓ったのだが、
その純粋な思慕はいつしか形を変えていた。
生涯秘めると決めたその思いを見透かされ、全てが終わったと思った時、
かの人も自分と同じ思いであったと告げてくれたのだ。

そして、宗次郎が元服を迎えた暁には、契りを交わそうと約したのであった。
―そして、今日で宗次郎は15を数えた。
約束の年が、遂に来たのだ。

互いの思いが通じてから何度も会っているというのに、今日ばかりは気持ちが落ち着かない。
あの約束が今日果たされるとも分からないのだが。

「今夜は、姉上たちと一緒に泊めてもらうことになってるんだ」
「そう、なんですか…」
その言葉の意図を捉えきれず、何となく気恥ずかしさから俯いた宗次郎を見て、
歳三は柔らかい微笑みを浮かべると、その耳元で囁いた。
「今夜…いいか?」

その言葉に宗次郎は一瞬体を震わせ、歳三を見ようと顔を上げようとしたが、
やはり俯いたまま耳たぶまで綺麗に染めた。
いらえを返さねば、と思うのだが、極度の緊張の為か口が開かない。
やっとの事で微かに頷くと、正面からは安堵した様な小さな溜め息がした。
驚いて顔を上げると、歳三は宗次郎の頭に軽く触れ、
「断られたらどうしようかと思った」
と苦笑した。

やはり緊張が解けぬ為だろうか、無言で立ち尽くしたままの宗次郎に
夜更けに行く、と告げると、歳三は前方に見えた親友に手を上げ宴の席へと混ざっていった。

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うーん。何だか、中途半端になってしまいました。無駄に長いし…苦笑 (2006.1.23up)