甘い香りに誘われて・・・ (中)



決戦の日もあと1週間余りに迫った、2月6日。
この昼休みの時間帯、ある応接室では例の2人が束の間の休息を楽しんでいた。

「すみません、手抜きで。昨日の夜、炊飯器のタイマーを入れ忘れちゃって…」
昼には重めのものを食べたがる土方にとって、これでは足りないだろうと危惧した総司は、
申し訳なさそうに大きめのランチボックスを取り出した。

中には、レタスとウインナーやサラダ菜と卵、ポテトサラダ、ハムとチーズなど、
様々な食材を挟んだバターロールが並んでいた。
更に、食べやすい大きさにカットしたフルーツまで用意している。
これのどこが手抜きだと言うのだろうか。

「手抜きなんかじゃねェよ。無理しなくていいんだぞ?たまには出前でもいいしな」
髪を撫でながら優しくそう話しかける土方に、総司は少し潤んだ視線を逸らして呟いた。
「…僕が作ったものを、食べて欲しいんです」

―全く、どうしてこの恋人は理性を揺るがすような言葉をこんな真昼間から、
しかも会社で軽く言ってのけてしまうのだろうか。
毎度のことながら、土方の脳裏では理性を賭け、悪魔と天使が壮絶な戦いを繰り広げている。
が、ふと目にした総司のうなじが小さく震え、次いで触れた頬からは常より高い体温が伝わってきたことで、
辛くも、理性を守護する天使たちが勝利を収めた。

「少し顔が赤いな」
言いながら、土方は総司の前髪を退ける。
「そうですか?土方さんの気のせいですよ」
この恋人の言う事は当てにならない、と熟知している土方は、彼の額に自分のものを合わせた。
伝わる温もりは、やはり己よりも高い。

「微熱か…いつからだ?」
問い詰める様な言葉を吐きながらも、その視線は不安に揺れている。
髪を優しく撫でられ、総司は幸せそうに瞳を閉じていたが、その言葉に分からぬといった風に首を傾げた。

「多分、土方さんの体温が低いのでしょう」
「そういえば、一昨日の夜は寒かったな…お前、ちゃんと風呂に浸からなかったのか?」
「おととい…?あっ、あれは、土方さんがっ…!!」
その時の様子を思い浮かべたらしく、総司は一気に耳まで染め上げた。

一昨日の土曜から日曜にかけて、総司は土方の家へ泊まりに行っていたのだ。
普段の週末は大抵土方の家に泊まり、共に過ごしているのだが、
1月末からは毎年決まって、例の土方の都合によって泊まる回数が減る。
その為この週末も久々のことであり、自らの都合故とは言え、土方も流石に我慢の限界に達していたのだ。

総司が風呂で体を洗い、泡を流そうとした時に、何の断りも無く風呂の扉が開けられた。
驚いて見上げる総司に、想像するも恐ろしい笑みを浮かべた土方が「背中を流してやる」と告げ、
当然の如く彼は土方から逃れようとしたのだが、「俺の家を汚す気か」と迫られ、仕方なしに風呂に留まった。
そして、その場でなされるままに行為に及ばれてしまったばかりでなく、
寒いと言って上がろうとすると浴槽に連れ込まれ、今度はのぼせてしまったのだった。

「もう…邪魔しないで下さいね」
「あぁ。寒い日はやめる」
そう言って、そっぽを向いていた恋人の頬に軽くキスをした。





それと時を同じくして、この日も会議室に一人の女性社員が駆け込んだ。
昼休みになると、お弁当組の社員の為に空いている会議室が開放されるのである。
少し呼吸を荒げたまま、彼女は笑顔でいつもの席へと腰掛け、お弁当箱をデスクに落ち着かせる。
すると、両隣に陣取っているいつものメンバーがすぐに身を乗り出して問い掛けた。

「ね、入った?」
「入った入った。今日もおこもり」
駆け込んだ女性社員は、いつもの様に報告を済ませた。
話題は勿論、社内でも有名な例の2人の昼休みの事で、彼らの様子見とその報告は当番制になりつつある。
会議室の中でそれぞれに会話をしていた人々も、この瞬間ばかりは必死に聞き耳を立てるのだ。

「うふふふ〜そっかぁ。うふふふふ」
右側に腰掛けた女性は、お弁当の包みから箸箱を取り出し、それをからからと鳴らしながら天を仰いだ。
「な、何よ?その不気味な笑いは…」
あからさまに妙な様子の彼女に、漸く呼吸を整えた社員が少し引いた様子で問うと、
左側にいた女性が何か閃いた様で、大きく息を吸い込んだ。

「まさかっ、抜け駆けしようってんじゃ!?」
「そんなことしたら…!」
最早、会社にいられないばかりでなく、真剣に入院程度の怪我を覚悟しなければなるまい。
「えー、違うわよ。私だってまだまだ自分がかわいいもの」
相変わらず笑みを浮かべたままの彼女は、淡々と自分のお弁当を広げている。
応じる様子も無いため、周囲は溜め息をつき、漸く己の食事にとりかかった。

「じゃあ何よ?何かあるんでしょ?」
「そうよ!何もないのに、そんなに浮かれているはず無いもの」
「そんなぁ、何もないってば」
質問攻めにされても何故か満面の笑みを浮かべている彼女に、不審感は高まるばかりだが、
2人は諦めた様に話題を他へと移した。

ピンポーン♪

突如鳴ったそのメロディは、女子社員ばかりのこの部屋の中では、唯一人だけが使用しているもの。
おっさんの様だから止めろという周囲の制止を意に返さないその人物は、しらを切っている彼女だ。

「もう、その間抜けな着信音、なんとかならないの」
「えー?わかりやすくていいじゃ…くっ!」
そう返しながら携帯を取り出した彼女は、受信したメールに目を移した瞬間、携帯を握り締めて息を詰めた。
積み重なる異様な態度に2人は、うっすらと涙が浮かばせる彼女に詰め寄った。

「何?迷惑メール?」
「ちょっと、なに固まってんのよ」
何かが嫌で涙ぐんでいるのか、それとも喜んでいるのか判じかねる態度に痺れを切らせた同僚は、携帯を覗き込む。
「どれ、見せてみ…って、ちょっと!これっ!?」
「え?何なに!?」

そこに表示されていたのは、沖田の前髪を軽く退け、彼の額に己のそれを合わせようとする鬼部長の写真であった。
恐らくは熱でも計ろうとしているのだろうが…少し邪まな見方をすれば、キスをしようとしている様にも見える。

一体どういう事なのか問い詰めようとした時、再び例の着信音が鳴り響いた。
「いやぁ〜ん…」
今度は完全に言葉を失った彼女の手から携帯を引き抜くが、彼女は何の反論もなく、悦に入っている。
2度目に送られてきたそれは、動画のようだ。
いつの間にか彼女たちの周りに集まっていた社員たちは、早く再生しろと先を促した。

「なんで!?どうしてこんな写メとムービーがくるのっ」
「うっわぁ…頭撫でてるよ、部長…」
「嬉しそうに、されるがまま」
「さすがだわ、いい仕事してくれるよ」
どうやら、今日の2人のランチタイムの状況の様で、そうと分かれば、その入手経路が気にかかる。

「ちょっと、どうしたのよ、これ?」
「えへへ…ちょこっと、ね」
「何がちょこっとよ、素直に吐け!」
流石にその剣幕に負けたのか、彼女はにやけた顔はそのままに、髪の毛を弄りながら言ってのけた。

「ウチの課の島田さんに、お昼休みの応接室ってどうなってるのかなぁ…て聞いただけよ」
事も無げなその言葉に、周囲の一同は感嘆の溜め息を漏らした。
「…島田さんっ!」
「その手があったか!」
「ええいっ、私のにも転送だ!」
「あー!私にもっ」
誰もが、自分もその画像を手にする為に必死だ。
奪われた携帯をバケツリレーの如く回された彼女は、流石に不満をあげる。
「ちょっと〜、返してよぉ」
「独り占めは許さないからねっ」

携帯の取り合いが続いていたその時、3度目の着信音が鳴り響いた。
「なになに!?」
「携帯、返して〜!」
持ち主の悲鳴に近い声に応じて漸く携帯が戻り、着信を調べると、やはりそれも島田からであった。

添付された画像を開くと、今度は言葉も無くデスクに突っ伏した。
「ど、どうしたの!?」
「もう、駄目だわ…うふふふ」

怪しすぎる言動に隣の2人がその携帯を覗き込めば、そこには総司の頬にキスをしている部長の写メ。
「ま、待ち受けにするしかないっ…!」
「やってくれるわねぇ〜」
「今日、外回りじゃなくて本当によかった…」

漸く主の元へと戻ってきた携帯はこうして再び回され、土方の牽制は思惑通りの効果を見せるのであった。





その日の3時頃、近藤の執務室に土方がやって来た。
「近藤さん、ちょっといいか?」

―ああ、やはり今年も持って来た…
彼が手にしたものを見ると、半ば諦めに近い気持ちで近藤は溜め息をついた。
「どれがいいか、味見してくれ」
土方が手にしていたのは、トレーに乗せられた1口大のチョコレート10粒だ。
見た目では分からないが、どうやら5種類のものを2粒ずつ用意しているらしい。

「トシ…自分で食えないなら、無理して作る必要は無いと思うぞ」
「今年は、大量でも飽きのこない甘さを調べなきゃならねェんだ」
近藤の言葉を完全に無視した土方は、意味の分からぬ事を呟く。

「…味見は本人にさせた方がいいんじゃないのか?」
「内緒にしていた方が、あいつも喜ぶ」
今日も2人は仲睦まじく食事を取っていた、と第一秘書から聞き及んでいる近藤は、
何故こうも毎年、自分が味見をさせられなければならないのか、理不尽な思いがして仕方が無い。



毎年、土方は総司の為にチョコレート菓子を作るのだ。
自身は甘いもの、特にチョコレートが大嫌いであるため、毎度味見をさせられるのは近藤である。
入社して最初の年のバレンタインに意を決した総司が土方に告白をして、元々目をつけていた土方が
それに応じる形で交際を始めたのだが、次の年からは土方が総司にバレンタインの贈り物をするようになった。

最高の贈り物にこだわるうちに、年々土方のレベルも上達していき、
今では、本場のパティシエ顔負けのチョコレート菓子を毎年編み出している。
だが、その完成品を口にできるのは総司だけであり、試作段階を口にできるのは近藤だけの特権だ。
土方に憧れる社員からすれば、近藤とて羨ましがられる立場にあるのだが、近藤にすればいい迷惑なのである。

今年のバレンタインの為に、土方は昨年末に業務用の特大冷蔵庫を購入した。
昨年よりも更に磨きをかけた腕で、誰も見たことの無い様な、だからと言って見掛け倒しでない料理を作る―
その為には、どうしても『口の堅い試食係』という協力者が必要となるのであった。



「甘さは同じだが、カカオの種類が違う。その点に気をつけてくれ」
「毎年言っていると思うが、甘いもんは苦手なんだ…山崎君、君はどうかね?」
言いながら、書類の上にトレーを置かれてしまっては、仕事もできない。
脇に立つ第一秘書にそう話題を振ってみるが、彼の表情は硬いままだ。
「仕事中ですので」

この秘書は自分の味方では無かっただろうか…
近藤はそんな憂鬱な思いで、苦手とするミルクチョコレートを渋々、口へと運んだ。

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