甘い香りに誘われて・・・ (前) |
「…では、その件はトシに任せるとしよう」
「代表。土方部長は本日、営業の後は戻らずに定時でお帰りになると…」 いつも残業しているあいつが、と近藤が驚いて秘書を見やると、彼は静かに頷いた。 もしやと思い、机上のカレンダーへと視線を移すと、そこには予想通りの数字が。 「2月、か…」 ―あぁ、今年もあの時期が来たか… 近藤はカレンダーを見つめると、盛大な溜め息を洩らした。 ここは国内最王手のセキュリティ会社、試衛館の本社だ。 義父である試衛館グループの総裁からセキュリティ部門を任された近藤勇は、 有能な人材に恵まれ、やがてセキュリティ部門を独立させるに至り、更にその業務を拡大させている。 とは言っても、駆け引きの苦手な近藤は代表取締役社長として決断を下し、 外部に向けての顔として存在している程度で、そこに至るまでの実質的な運営には関わっていない。 中核を為すのは、各部門を束ねる優秀な部下たちである。 そのうち最も近藤の信頼を受けているのは、無二の親友である土方歳三だ。 経営戦略部を束ねる彼は、仕事だろうが近藤の私事だろうが、彼の為ならばいくらでも残業を引き受け、 時には本来関わりの無いはずの部門にまで首を突っ込む程の仕事人間だったのだが、 ここ数年、1月末になると決まって定時で帰る様になった。 更に、それまでは昼飯を食う暇があったら営業を、と管理職であるにも関わらず 食事もとらずに働いていた土方は、今では昼休みには必ず社にいる様になった。 今日も今頃は…と、会食へ向かう車の中、近藤は親友へと思いを馳せた。 「…うまい」 ぼそりと呟かれた言葉をしっかりと拾った青年は、不安気な表情を極上の笑みに塗り替えた。 「本当ですか!?」 「あぁ」 返す土方も、柔らかく目元に笑みを浮かべた。 一部ではその見目麗しさと経営手腕から『英雄』と称され、女子社員からの憧れを受け、 また影では『鬼』とまで言われている土方も、この恋人を前にしては仮面を剥ぐ。 向かい合う可愛らしい笑顔の青年は、今年で入社5年目になる、人事部の沖田総司。 大卒での採用を中心としているこの社の中では珍しい、高卒入社をした優秀な人材である。 彼もかなり人気があり、事もあろうに彼より年下の新入社員からも可愛いと言われている程だ。 彼は当初は営業職に就いていたのだが、訪問先から仕事に集中できなくなると苦情があった事や、 自分の目の届かない場所へ彼を送ることを厭った土方の都合の為、人事に異動させられたという経歴を持つ。 しかし人事のポジションであっても、彼が視察で現場に赴けば集中ができないという苦情が相次ぎ、 本社でひたすら事務手続きに追われる日々を送っており、次の異動は土方の秘書だろう、という噂まで立っている。 「よかったぁ…お魚の竜田揚げって初めて作ったから、味付けが不安だったんです」 と言いながら、総司はお弁当箱に先程のかじきの竜田揚げの入った容器を併せて渡した。 容器が別になっているのは、竜田揚げが土方の口に合わなかったら、と危惧した結果だ。 それを読み取った土方は、総司の頭を軽く撫でて言った。 「初めてとは思えねェよ。いつも悪いな」 「一緒に食べてもらえるだけで、嬉しいですから」 頭を振った総司のその言葉と、少し恥ずかしそうに頬を染めた表情に、 土方は込み上げてきた、今すぐ押し倒したい気持ちを抑えるのに精一杯だった。 2人が白昼堂々とこんな行為を行えるのは、周囲には2人は従兄弟である、と言う事になっているからだ。 尤も、本当に従兄弟だったとしても職場でこれほど頻繁に会う筈も無いし、 多くの者は2人の関係にとうに気付いているのだが、誰もそれを口にはしない。 …それは全て、あのチョコレートの祭典の為である。 2人が恋人であると公言されていたとしたら、どちらにもバレンタインに贈り物をするなど許される筈が無いが、 従兄弟という肩書きのある今ならば、いくらでもアプローチできる。 もうここまで来れば、恋愛感情如何よりも受け取ってもらえる事自体に意義がある。 甘いものが苦手な歳三には趣向を凝らした品々が、甘いものを好物とする総司には有名な銘菓の数々が贈られる。 歳三は受け取ろうともしない為、渡したい者は秘書に押し付けたり車のボンネットに乗せたり、それだけで一苦労だ。 逆に総司は喜んで受け取り、更に律儀な彼はバレンタインに贈り物をくれた全ての人にお返しを用意する為、 見返りがあるという点で評判がたってしまい、年々贈られるチョコレートの量が増えている。 今では、その返礼の為に総司の月給の半額程度は消えてしまうのだ。 その女性陣に負けてはならぬと躍起になるのが、その恋人である。 誰よりも愛しい恋人に、誰よりも心のこもったチョコレートを贈るため、 土方歳三は今年も決戦の日であるバレンタインに備えて、早くも準備に追われているのだった・・・ |
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