月夜の姫君(壱)  



長月も半ばを過ぎ、太陽が一日の幕を急ぎ下ろす様になってきた。
朝晩は既に、水無月を思わす冷え込みをみせる事も多くなった。

そんなある日の夕暮れ間際。

「ひっじかーたさーん!」
鬼の住みかに響く、軽やかで柔らかい声――
それはもう、屯所内の誰にとっても日常の一部となっている、副長執務室にかかる呼び声。
その人物以外で、あの部屋にああまで明るく向かえる人物はいないだろう。

平隊士の間では、2人の仲は恋仲であるのかと賭け事まで起こる始末である。
実際に2人は恋仲であるが、周囲に気取られている事を知らない声の主は、返事を待たぬまま、襖を開けた。

「おい。返事も無いのに勝手に入ってくんじゃねぇ」
文机に向かった部屋の主は、一瞥もせずに言い放つ。
その左手はちょうど鬢の辺りに当てられている事から、沖田は彼が何か悩んでいたのだと察する。

「そんな事より、ちょっと出掛けませんか?」
「お前なぁ…俺は今、真剣に悩んでんだよ」
「悩んでても仕方ないですって。いい気分転換になると思うんですけど」
沖田がそこまで述べると、漸く土方が顔を上げる。

「どこへ行くつもりだ?」
向けられた怪訝な面持ちに一切怯む様子もなく、無邪気な笑みを浮かべ、沖田は答える。
相反する表情であるが、どちらにも『泣く子も黙る』という表現を当てはめることができるだろう。

「内緒です」
「じゃあ、一人で行ってこい」

言外に忙しい、と含めると、沖田は一瞬頬を膨らませかけたが、ふと悪戯めいた笑みを浮かべる。
何を思いついたものかと土方が眺めていると、急に目を細めて眉を寄せた。

日頃は長く下ろされた豊かな髪とその端正な造りが際立つために綺麗・可愛いといった印象ばかり与えられるが、こうしてみると、
やはり武士の自信と気品に満ちたりりしさも持ち合わせている。
美しい、という言葉が最も相応しいだろう。

「いいから、ついてこい」
改めて嘆息していた土方に掛けられた言葉は、明らかに彼以外の人物の口調を真似たものだった。
全く持って似ていないが、間違うはずもない。
―気づかぬ訳もない。

土方の、真似だ。

沖田は、諾と言わないお返しとばかりに、物真似を始めたのだ。
彼の言葉で言うならば『土方さんごっこ』。

幼い頃から、何かをねだる時などには照れ隠しにこれをするのだ。
気持ちを伝える事は出来るようになっても、相変わらず何かを強いる事はできないらしい。
懐かしさと愛しさから、怒るのも忘れて思わず吹き出すと、沖田も微笑みを返す。

「最近、ずっと忙しくて私に構って下さらなかったでしょ?今だけで我慢しますから、付き合って下さいよ」
確かに、特に多忙を極めたここ数日は、毎朝起こしにくる時に口付けを交わす位しか触れ合っていなかった。
巡察の報告や沖田が部屋に来た際には顔を合わせるが、
触れるという事はなかったと思い至り、仕方ねぇな、と呟きながら腰を上げた。



屯所を連れ立って出たのは、ちょうど日が落ちた頃。
沖田は「思ったより遅くなっちゃいました」と苦笑しながら提灯を用意する。
思った以上に、夜の帳も早くおりる様で、瞬く間に夜闇が覆いかかってくる。
蛍を閉じ込めた様な明かりを頼りに、儚い鈴虫の羽音に耳を澄ませながら歩きだした。

「で?総司、どこに行きたいんだ?」
その言葉に、沖田は困った様に頭をかく。
「実は、考えてないんです。河原町の料理屋なんていかがです?」
「は…?」

土方の呟きになど耳も貸さず、顎に右手を当て、右肘下に充てた左手で持った提灯を器用に揺らす。
「土方さんは、どこか良いお店ご存じですかー?」
「どこかも何も…今日はお前が、気晴らしに俺を招待してくれるんじゃなかったのか?」
「?そうですよ?」

目前の麗人は思案に耽っているが、土方はやはり真意が掴めぬまま。
「総司、行きたい店があるから誘ったんじゃねえのか?」
土方の台詞に被せる様に、総司は「あっ」と口内で呟く。

「違いますよ。とりあえず、先斗町に行きましょ!」
言うなり、さっさと歩き始める。

それは沖田にとっては早歩きでも、土方にとっては丁度良い早さで。
すぐに追いついた土方がそっと沖田の肩を抱くと、沖田は一瞬からだを震わせたものの、言葉は発せずにただ口元に笑みを浮かべる。
土方の手がしなやかな背中を下り、腰を抱き寄せた時も、彼はそのままに応じていた。

途中通りすがった籠を呼び止めて土方を乗せると、自身も籠に乗った。
土方は腰を抱き寄せていた感触と温もりの残る手を淋しく眺めながら、ぼんやりと籠に揺られていた。






やがて明かりが籠越しに透け、周囲の賑わいも伝わり始め、目的地が近い事を悟る。
三条大橋で籠を降りると、沖田は真っ先に菓子屋に向かう。

「お前、菓子なんか食ってると食事入らなくなるぞ!」
「やだなぁ、土方さん。いくら私でも食前には食べませんよ」
と、本音かどうか疑わしい言葉を笑い飛ばしながら言ってのける。
その手は店員に向かって2つ、と示されている。

「俺は菓子なんざ食わねえよ」
「今夜は特別なんですから、付き合って下さいよ」
何が特別なのか、土方には全くもって分からない。

「そうか。食事はいつもの店でいいか?」
相変わらず怪訝な面持ちの土方は、もう我慢ならぬ、といった風に店を指名する。
もはや彼が自分を連れ出した事情などどうでもよく、とにかく早く帰って仕事を終わらせたいと思い始めていた。

「ええ。ただし、川が見える座敷にして下さいね」
そう言うと、店員に先程の注文品をそこに届ける様、頼む。

もう何を尋ねても無駄だと理解した土方は、黙したまま少しゆっくりと歩を進める。
何も言わずに後に続く沖田は、共にいるだけで相変わらず幸せそうな微笑みを浮かべているのだろう事は、たやすく思い描かれた。
本当ならば隣で肩を抱いてやりたいのだが、この雑踏では並ぶこともできず、
また新選組の副長と一番隊長の仲を取り沙汰にされる訳にもいかないため、叶わぬことを歯痒く思った。

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ちょっと忙しめでなかなか話が進まないので、途中まで先にアップします!
中途半端な場所で切れてしまって、ごめんなさい…!早めに続き書いて出したいと思います!
(2005.10.1upload)