不香の花 |
「こんな所で、何してるんです?」
聞き慣れた声が、鼓膜を揺すった。 ごごっ… ずももっ…… 時折微睡む程度で、大して眠れぬまま迎えた朝。 頬を刺す冷気が、疲れた体に心地好い。 ぐぐっ… ごごっ…… 地面を踏み締めると、固いようで朧気な音がする。 白に埋まる足元に遣っていた視線を上げれば、 薄い雲の隙間から柔らかく注がれていた光が、頼りなくなっていた。 城郭の端の辺りまできたという事は、知らぬうちに大分歩いていたという事か。 胸元の細い鎖で指を遊ばせながら、懐中の時計を出そうとして、止めた。 軍議をすると聞いた気がするが、このまま知らぬ振りをしているのが、得策だろう。 かつては想像だにしなかった雪という戦の障害と、思うまま動けぬ自分への苛立ち。 勝ち方を知らない臆病者の指揮官との埒の開かない議論にも、ほとほと飽きた。 己の意志など通る訳がないのだから、参加する必要などないだろう… そう思った時、幹部を召集する度に嫌がっていた人物を思い出した。 『私が反目する筈ないんですから、いてもいなくても同じでしょう』 そういう問題じゃない、そう突っぱねてやれば頬を膨らませて、子供たちと次の約をとりつけていた。 実際に始まれば、打って変わって大人びた表情で、何か問われるまではひたすら黙って座っていた。 いつまで経っても子供だ、と思っていたが、今の自分より余程大人だったろう。 自分は、黙ってなどいられない… ふっ、と軽く笑うと、いつの間にか降りだしていた雪に気付いた。 黒い外套に、綿菓子の様な立体感のある雪が薄く積もっている。 (こんなに軽い雪…あいつが見たら驚くだろうに) 江戸や京で見るものとはまた違った雪。 払いもせず、胸元まで上げた手を見つめた。 革の手袋越しでは体温も伝わらないのか、溶けぬ雪がふわりと乗る。 さらさらとしたそれを一掴み掬い上げ、両手で丸めてみるとすぐに表面が崩れてきたが、 力を込めて固め、近くにあった切り株に置いた。 それがしっかりと座っている事を確かめると、同じ動作を繰り返し、先程のそれに重ねた。 上下が同じ大きさの小さな雪だるま。 しばらくは切り株の上で大人しくしていたが、 やがて積もる雪に均衡を崩した上部が転げ、切り株から落ちた。 白い息を中空に吐き出し、太陽が完全に姿を消した事を知る。 物憂く空を見上げたまま、己はこうして腐った様に死地を求めて果ててゆくのだろうか… あの雪だるまは、己の将来(さき)かと、自嘲した。 もうずっと、己に相応しい最期を求めてきたが… 今の自分には、この雪に埋もれる程度が相応しいのかもしれない。 腐っているのは分かっているが、歩き出すだけの心が今は無いのだから。 (この雪に、埋もれるのもいいか…) 目蓋を閉ざせば、顔へと触れる雪が何故か暖かく感じた。 その背中に、耳慣れた声が届いた。 「…お前か、伊庭」 首だけ振り返った土方は、そこに江戸からの悪友の姿を見た。 恐らく同じ台詞を口にしたであろう人物の姿を思い描いたのだが、その姿がここにある筈もなく… 夢でも幻影でもいい。ただ、会いたかったのだが。 「折角オイラの顔が見られたってのに、随分な挨拶ですね」 「久々に会った訳でもないんだ、何を言う」 この五稜郭本陣へと到着するまで、共に各地の攻略をしながら移動してきたのだ。 互いに幾度か顔も合わせているし、戦況の報告も受けていた。 何を言うのかと土方が見返せば、少し苦い笑みを浮かべた秀麗な顔がある。 それに自分の有様から他に掛ける言葉がなかったのだと漸く気付き、同じように苦笑した目を眇めた。 「いつも寒い中、土方さんを探しに行かされてる市村の坊が可哀想だから、代わりにオイラが来たんです」 「雪ん中を転げて喜んでるあいつに、そんな気遣いがいるかよ…」 言ったのは自分だが確かにそうだ、と伊庭も苦笑しながら頷いた。 「雪が降ると、喜んでましたよね…」 言いながら、懐かし気に目を細めた伊庭の脳裏に浮かんでいるであろう風景が、 土方が思い浮かべたものと同様であるのは、容易に知れた。 「………」 「そういや、埋もれた事ありませんでした?」 「…あったな」 その年、江戸は稀にみる大雪に見舞われていた。 14を迎え、門下生として暮らしている今でも、 何だかんだ言って雑務を押しつけられている宗次郎は、最近は雪かきに大忙しだった。 とはいえ、仕事が増えるのだと言うのに宗次郎は大はしゃぎで、 敷地内の通路から除けた雪を楽しげに弄くっている。 まだ引き合わせたばかりだというのに、既に気の合ったらしい伊庭は、 時折ふらりと試衛館までやってくる様になっていた。 そして今も、道場の縁側に腰を下ろした土方の隣で、宗次郎を眺めている。 梯子をかけて母屋の屋根の雪を落としていた宗次郎だったが、 やがて疲れたのかしゃがみこみ、足元の雪をいじり始めた。 声を上げて笑いながら何をしているかと思えば、近付いてきた雀と戯れているらしい。 年の割に小さな背の向こうで、茶色いものが素早く動くのが時折見えた。 「優しい奴ってのぁ、動物にも分かるんですかね」 柔らかい表情でそう呟いた伊庭を見ながら、 自分もきっと宗次郎に似たような表情を向けているのだろうなと思う。 その視線の先で、屋根の上に積もった雪がずるずると滑ってきている事に気がついた。 が、土方が宗次郎に声を掛けるよりも早く、雪は彼に向かって急降下を始め― ぼごっ… ずどどどっ…… 雪は土方の伊庭を曇らせながら、宗次郎を覆い隠す。 焦って舌打ちをする土方と唖然とした伊庭は、雪煙が落ち着くまでその場に立ち尽くしていた。 「…宗次郎、素早い癖にどうして雪を避けられなかったんで…?」 「あいつ、昔、雪に埋もれた時の事が忘れられずにいて、動けなかったのかもしれねぇ…!」 「――!!本当ですかぃ!?しかし、何でまた江戸で雪に埋もれるなんて…」 「俺が作ってやったかまくらが俺のいない隙に壊されて、生き埋めになったんだ!」 共に並んで、雪をかいていた伊庭は、その言葉に一瞬手を止めた。 「それって、土方さんの所為じゃ……」 その呟きは誰にの耳にも届かないまま、中空へと消えた。 助け出され目覚めた宗次郎は涙目で遅いと喚き、土方に雪塊を投げ付けたのだった。 「あいつがここにいたら、きっと雪投げつけて土方さんを笑ってますよ。 『こんな所で何してるんだ』って。オイラも加勢するから、土方さんは雪まみれ」 片方しかない手では、この蝦夷の雪をろくに固められないというのに、 ケラケラと笑う伊庭の屈託の無い笑みは、いつか見たそれと寸分違わぬもので。 (…伊庭らしい。励まされるとは、俺らしくもないな) 口元を引いて笑うと、土方は伊庭に背を向けて足元の雪を蹴った。 「新選組はオイラが預かります。土方さんよりは優しくしますよ。だから…」 そこで言葉を切った伊庭は土方の反応を待っている様で、 彼は振り返って、黙ったまま視線で続きを促す。 しばらくその目を見据えてから、伊庭は再び口を開いた。 「だから、あんたは心置きなく走ればいい。土方歳三らしく、暴れればいい」 ―その言葉は、土方の胸に響いた。 新選組として、そしてその副長としての自分を意識すればするほど、 自分らしく思うままに戦うことができなくなっていた。 今では陸軍奉行並としての立場から、より一層身動きが取れなくなっている。 その事を理解したうえで、伊庭は新選組を預かると言い、好きに戦えと言ったのだ。 伊庭ならば、己が最も信頼する部隊である新選組の力を最大限に活かしてくれるに違いないし、 無碍にすることもない。伊庭は、安心して預けられる相手だ。 実際にそんな事は不可能だと理解しているが、伊庭の言葉で土方は確かに勇気付けられた。 「俺らしく…か」 (文字通り今更だが…目から鱗だな) 土方は、最後の最後まで自分らしくあった総司を思い浮かべた。 よくよく考えれば、己を律することなど自分には不似合いだと、若き日を思い出す。 (そうだ。奴らを相手に、一暴れしてやろう) 闘志の漲った眼差しを伊庭に向けた土方は、本陣へと向かって歩き出した。 そして、伊庭の隣を通り過ぎる時、彼の肩を叩いた。 その手の強さから、漲る気力を感じ取った伊庭はしばらくその背を見ていたが、 1人でずかずかと遠ざかる土方に、慌てて声を掛けた。 「ちょっ…土方さん!オイラ片腕で転びやすいんですけど…助けちゃくれないんですかぃ?」 立ち止まった土方はしばらく正面を向いたままでいたが、 やがて左足を踏み出して、いつもの不敵な笑みを浮かべて伊庭を見据えた。 「まだ一人で立てるんだから、支えてもらう手なんて必要ないだろ?」 空へ視線を遣れば、あの笑顔がそこにある気がした。 「お前にも…俺にも、な」 踵を返した男の手は、腰の刀に添えられている。 それを見た伊庭も、口元で笑んで後を追った。 雪は止み、雲は散り。 澄んだ空が2人を見下ろしていた。 |
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函館に行った時、五稜郭で雪に降られ、軍の構成図(?)を見て思いついたお話です。ほんっとうに遅くなりすぎて、もう新緑の季節になりましたが…!汗 以前にも伊庭さんを登場させたお話を書きましたが、名前は出さなかったので今回が初登場と言ってもいいかもしれません。漸く書けましたー。 伊庭さんとの友情や信頼関係をずっと書きたかったんです。思う様に表現できなくて悔しいのですが…土方さんがちょっと弱気な時、傍にいて欲しくて。 忠犬の島田さんにも市村君にもできない、伊庭さんがやるからこそ意味のある役割っていうのがあったんじゃないかと思ってます。(2007.5.6upload) この話は、函館旅に付き合ってくれた月ちゃんに勝手に捧げます!…が、いい加減に季節ずれすぎなので、微妙に気が引けますが…(^-^;)苦笑 |