初めてのキス、最期のキス |
名も知らぬ鳥たちが、群れを成していた。 夕暮れに紅く染められた、途方も無く広い天空という海原を。 自由を象徴する、その白い翼を大きく広げて――― 「こらッ!よそ見してないで、ちゃんとおやりよ!」 突然の背後からの怒鳴り声。 常に怒鳴り散らしているため少し嗄れたそれは、凄みを増長させている。 思わず、あからさまに肩を震わせてしまった。 「すみません。すぐに終わらせます」 そう謝罪の意を込めた返事をすると、邪魔だとか使えないとか、 ぶつぶつ文句を言いながら足早に道場脇を抜けて行った。 彼女は今お世話になっている家のおかみさん。 ご主人は道場を営んでいて、自分はその道場に一昨年から預けられている。 彼女は無類の綺麗好きで、暇さえあれば掃除を言いつけてくる。 内弟子としてこの道場に預けられた当初は剣術の稽古を受けていなかったので、 一日中掃除や洗濯・買出し・食事の支度などをして過ごしていた。 だから、これでも仕事は減った方だ。 「ふぅ…」 僕は溜め息をつくと、雑巾を桶の水に浸して絞った。 (急いで床を磨いて、大先生やおかみさんの食事の準備をしないと…) 人気もなく、薄暗くなってきた広い道場を見渡した。 一人で磨くのは大変であるが、2年近く経った今では手際もかなり良くなった。 夕餉の準備が遅れればまた怒られるので、大急ぎで磨きにかかる。 そうして道場の端から端まで一通り磨き終わり、 井戸端で雑巾を綺麗に流している時、ふいに声を掛けられた。 「相変わらず、掃除ばっかさせられてんだな。ソージ」 ―――聞きなれた、低く透き通った温かい声。聞きたかった、優しい声。 自分の名前に掃除を引っ掛けた嫌味な言い回しも、彼になら言われても構わない。 「お帰りなさい、土方さん!」 振り返りざまに、抑えられない嬉しさに満ちた笑顔で彼を迎える。 「おう。久し振りだな、ソージ」 目の前には、着流しを纏った涼しい顔の美青年。 名は、土方歳三という。 自分の力のせいで、父上を死なせてしまった。 自分には、誰からも必要とされないどころか、人を死に追いやる力しかない。 そう思って、人と関わる事さえも恐れて自分を呪っていた僕に、 生きる希望を、目的を与えてくれた人。 ずっと欲しかった、『必要とされる自分』を与えてくれた人。 彼が行商に出て行ったのが梅の季節が終わる頃だったから、半年以上経っているだろうか。 てっきり行商用の薬箱を背負った旅装姿だと思っていた僕は、ちょっと驚く。 「いつ戻っていたんですか?」 「昨日だよ。今日は勝っつぁんいるか?」 彼はそう言って、僕の隣にしゃがんだ。端整な顔が僕の目前で優しい笑みを作る。 「それが…出稽古に行ってしまってるんです。明日には戻ると思うんですが」 申し訳なく思いながら言うと、彼はそうか、と呟いて僕の頭を軽くぽんぽんと叩いた。 そして立ち上がり、右手を顎に当て左手を腰の辺りに当てて思案し始めた。 すぐに帰ってしまうつもりだろうか。そう思うと、勝手に口が動いていた。 「ちょっと待っててもらえれば、食事用意しますよ」 「いや、メシは済ませて来たからいいんだ。それより、今晩泊まれないか?」 近くに適当な知り合いがいなくて、と言う。 むしろ彼の場合、知り合いでなくても喜んで床を用意する女性が沢山いるだろうが、 今日はそういった家を訪れる気はない様だ。 「どうでしょうか…客間の方、覗いてきますね」 そう言った所で、奥から「宗次郎!」と叫ぶ嗄れた声が響いてきた。 僕は慌てて今行きます、と声を上げる。 「す、すみません。ちょっと食事の準備してきますから、道場で待っていてください」 「お前も大変だな…勝っちゃんがいないと、余計に仕事押し付けられんだろ」 僕は同情の苦笑を浮かべる彼に、同じく苦笑いを返すと、土間へと駆けて行った。 結局、その日は大先生の知人の方が客間を使っていたため、土方さんにそれを告げた。 「そうか。まぁ、急に来たから仕方ねーな…道場で寝る分には構わないか?」 彼はそれほど慌てた様子もなく、平然と次の言葉を続けた。 「別に構わないんですけど、お布団がないんです」 「こんな秋口じゃ、別に平気だろ」 「僕、風邪をひいて寝込んだんです!絶対だめですよ!!」 僕は必死に首を横に振った。現に、今座っている道場の床は冷え切っている。 「いや、お前みたいな子供とは身体のつくりが違うから大丈夫だろ」 彼は困った表情で反論するが、これだけは譲れない。 この秋にひいた風邪で、自分は大変な頭痛に襲われたのだ。 他の誰にも、同じ様な思いをさせたくない。 「あッ!!」 突然、僕はひらめいて声をあげた。土方さんはどうした、と顔をのぞく。 「僕のお布団で寝ていいですよ!掛け布団なら2枚あるから、僕はそれに包まって寝ますから」 「はぁ!?」 「お布団、元々客間にあった物なんです。だから、土方さんでも使えると思いますけど」 土方さんの驚きは、自分の寝具が子供用の布団だと思ったからだろうと思い、 自分の物が一人前の品であると言ったのだが、 それでも土方さんは、目を見開いてこちらを見ていた。 僕が不思議に思って首を傾げて見上げていると、ようやく彼は承知した。 ――何がそんなに引っかかっているのだろうか。 全くもって分からないが、とりあえず離れにある自分の部屋に入り、 部屋の中央よりも少しずらした位置に、布団を敷き始めた。 毎日、大きすぎて片付けるのにも難儀する布団だが、土方にとっては丁度いいだろう。 2〜3分かけて準備し終えた頃、遅れて彼が入ってきた。 「…!!」 何やら、入り口のふすまを開けたまま、驚いた様子でこちらを見ている。 「どうかしたんですか?」 「お、お前の部屋はここだけなのか?」 「?そうですけど」 「…荷物、それだけかよ」 言われて、自分の左右背後を見渡した。 今この部屋にあるものは、布団・竹刀・木刀・文机・着替えの風呂敷包みだけだ。 確かに殺風景な部屋だし、自分がここに預けられた2年前と何ら変化が無いのも事実だった。 だが、自分は何も望んではいけないと、姉から何度も教えられている。 「特に必要なものがありませんから。それより、僕少し疲れたから先に寝させてもらいますね」 「あ、お前こっち来いよ」 布団の脇で眠りに就こうとした自分を呼びとめ、手招きをしている。 何かと思って、未だに入り口にいる彼に近づくと、突然抱き上げられた。 「わッ…!!な、何するんですか!?」 目の前には、土方さんの顔。 こうして同じ目線まで抱き上げられると、彼の背がいかに高いか、改めて実感する。 ふと、自分もいつかは同じ様な背丈になれればいいな、と思う。 「ソージ、一緒に寝るか!腕枕してやるよ」 それとも子守唄でも歌った方がいいか、と彼は意地悪く口角を上げて僕を見つめ、 返事など聞く事もなく、僕を抱いたまま布団に潜った。 でも本当は、僕は返事をしたくても、できなかったのだ。 誰かに抱き上げてもらったのも、腕枕してもらうのも初めてである。 父親は早くに亡くなってしまったし、武家の嫡男として生まれて 厳しく育てられたので、誰かと一緒に寝るなんて有り得なかった。 だから、毎日寂しく色々な事を思いながら孤独に過ごしていた時間を 一緒に過ごしてくれるという言葉が、どうしようもなく嬉しかった。 女々しいとか11歳にもなって…と言われそうだが、本当に嬉しくて仕方なかった。 でも嬉しい反面、目が合うとやはり恥ずかしいので、彼の腕を枕に仰向けになる。 その途端、人肌の温もりのためか、一気に眠気が襲ってきた。 「…そのうち、竹とんぼ作ってやる。祭で面でも買ってやるよ」 もう瞼を上げる気力も無いが、微かに土方の囁きが聞こえたので、 声になっているか分からないが、「うん」と相槌を打つ。 「今までお前が我慢してきた事、端から全部やっていこうな」 これにも「うん」と応えたつもりだが、彼の耳に届いていたかどうか、よく分からない。 それからしばらくして、僕の唇に一瞬、何か柔らかい物が押し当てられた気がした。 このやりとり自体を僕は夢うつつの状態で聞いていたから、 実際に言葉が投げかけられていたのかどうかさえ危うい。 現実であって欲しいけれど、どれも自分には夢の様な言葉ばかりだったから… 全て夢だったのか、現実だったのか――― 触れたものの正体は勿論のこと、温かい言葉が現実だったのかどうか僕には知る由も無い。 でも、その日ほど安心して眠りについた夜は、それまでに無かったように思う。 |
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あれあれ?勢いで書いたら、何だか分かりにくい話に…! 宗次郎視点で書いてたのに、一人称と三人称が混ざってるし。土方の心境も、うまく描写できなくて…。凹 私的に、本当に初めてのキスは、土方→宗次郎の一方通行だと思うんですよ。 宗次郎はまだ土方さんを慕っているだけの状態なんだけど、奪われちゃって。 この話じゃ寝させちゃったので、そのうち違うバージョンが書きたいなぁ… 『最期のキス』については、ちょっと後回しにしたいと思います。(2005.9.11up) |